21g 




 人は死んだら、21グラム軽くなるという。
 昔、100年という長い月日を待つ間に、こっそり潜り込んだエルフ森の蔵書館でそんな報告書を見たことがあった。もっと可愛らしい、例えば大昔の御伽噺でも読もうかな、と思っていたアーチェは、何を馬鹿な、と鼻で笑って、その赤茶けた紙切れを放り投げた。もともと生物学や死後の世界など彼女には興味がない。それはあっという間に書物の間に埋没した。もう二度と思い出すことはないと、そう思っていた。

「ね、チェスター」

 アーチェの口から、吐息に交じってささやき声が漏れる。その声は狂おしいほどに甘く、同時に酷く苦かった。チェスター、ともう一度ささやいて、彼女はそっと青白い頬を撫でた。先ほどまで聞こえていたひゅーひゅーとう苦しげな息遣いは、今はもう聞こえない。頬から鼻、目、額と順に撫でていって、アーチェは最後にそっと右手を包み込んだ。ベッドの横にだらりと垂れさがったそれはしわくちゃで、昔のような洗練さは失われてしまっていた。

「もう、くるしくない?」

 くたりとした手に頬を寄せて、アーチェはそう問いかけた。握ったその手は、もう永遠に握り返されることはない。青く澄んだ瞳は永遠に彼女を映さないし、その唇は二度とアーチェの名を紡がない。 
 昨日まで動いて、会話して、笑っていた彼は、もうどこにもいないのだ。
 滲みそうになる視界に目を瞬かせて、アーチェは長く息を吐いた。肺の息をすべて出し切ってしまうように、ゆっくりと、しかし確実に。限界まで出し切って、それでもなお息を吐き続けたアーチェは、間を置かずげほげほと咳き込んだ。脳が本能的に酸素を求め、まるで金魚のようにぱくぱくと口が開く。生理的に浮かんだ涙を隠すように、アーチェはぱたりとシーツの上に突っ伏した。


 “人は死んだら、21グラム軽くなる”

 昔読んだその報告書は、なにやら難しい公式や数字の羅列の後で、それを魂の重さだと締めくくっていた。科学的に何が減っているのかわからない。だから、命の重さだと提言するという、なんともファンタジックな話だった。
 もちろんそれは100年以上前の話。今ではその現象に科学的根拠がつけられていることも、彼女はとっくの昔に知っていた。肺の中の空気が抜けたとき、人の体は21グラム軽くなる。つまらない結果、とアーチェは心の中でつぶやいた。それならまだ、魂と器の別離による結末の方がまだ夢がある。

 100年以上生きてきたアーチェにとって、人の死は別段驚くことではない。大切な人が死ぬのを数えきれないほど見てきたし、老いることのない自分の体を引き裂こうとしたこともあった。生前と死後の体重の差を気に掛けることもなかった。死んだ人間はもう動かない。それだけで十分だった。魂の所在を模索するには、彼女は短期間に多くの死を見すぎたのだ。

 だけど、とシーツに沈んだままだったアーチェの唇が、小さく戦慄いた。
 今目の前に横たわるこの男の魂は、いったいどこに行ったのだろう。天国だとか地獄だとか、そういう神話的な世界に旅立ったのだろうか。それともまだ、アーチェの周りに留まっているのだろうか。あるいはまだ、体から抜けていないのか。

 今、彼を抱くことができたら、その体重の違いを見つけることができるだろうか。たった21グラム。彼の命は、アーチェにとってそんなに軽いものではないけれど。
 嗚呼、それでもやはり。科学の示したように、彼の死体は生前よりも幾分か軽くなっているのだろう。それが本当に生命の重さだったらいいのに、とアーチェは唇をかみしめた。ジワリとシーツに染みが広がる。たがの外れた涙は、もう止まらなかった。

 100年待ち続けて勝ち得た彼の生涯はあまりにも短くて、残酷なほど幸福だった。冷たくなった腕を握りしめて小さく嗚咽を漏らしたアーチェが、まだ幼さの残る顔をくしゃりと歪ませる。半分混じったエルフの血は彼らを再びめぐりあわせもしたが、同時に手酷い別れも用意していたのだ。ずっとまえに決めていたはずの覚悟が、彼の死を前にぼろぼろと崩れ去っていく。

「さみしい、よ」

ひとりはいや。駄々っ子のように首をふる。直後に訪れた沈黙という返答が、彼の不在を雄弁に語っていた。大人げなくて子供じみていた彼女のわがままを、照れ隠しの不平とともに寛容してきた彼は、もういない。

 いまここで肺の空気をすべて抜いたら、魂は彼と同じところに行けるだろうか。アーチェは再び息を吐き出そうと口を開きかけて、そのままつぐんだ。やさしい彼は、そんなこと望んでいないだろう。最後まで笑って、彼女の幸せを案じてくれた彼だから。

 けれど。


「わかんないよ、チェスター」


 流れる涙の止め方も、彼の元に行く術も。
 ベッドに横たわる彼の顔はどこか微笑んでいるようで、アーチェにはそれが酷く哀しく映った。彼女の手のひらは、死人のように冷たかった。





どうしてこうなった…
リハビリがリハビリにならなかった件。






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