Sign of the death




 雨の音がしていた。いつからか降り出したそれはあっという間に雨足を速め、窓ガラスを容赦なく叩きつける。ざあざあと無機質な音色は、まるで誰かが狂ったように泣き叫んでいるようにも聞こえて、ジョンはくしゃりと唇を歪めた。笑ったつもりだった。
 窓の結露を拭うと、激しさを増している豪雨の中からせわしなく動き回る人々が現れる。いつもと変わらない、平凡な光景。静かで、穏やかで、とても平和な光景だった。
「――…Bored」
 つまらない。消え入りそうな声で呟いた。彼ならきっと、眼下の彼らを見てそう言うだろう。忌々しそうに眉をひそめて、それでもどこか寂しげに目の奥を揺らして、「Bored」と。その卓越した知能と類稀なる慧眼によって天才というカテゴリーに分類された彼には、凡人で溢れかえるこの社会は肌に合わなかったに違いない。奇怪な殺人事件や難解な事件に嬉々として打ち込む様を人は異常と呼び、彼を精神病質者(psychopath)と位置づけた。彼が凡人を理解できないように、凡人もまた、自分と違う異質な存在を認めることができないのだ。シャーロック・ホームズという天才を前に、自分の愚劣を認めるのを拒み、理解の追い付かないことを嘘だと決めつけ、自身を正当化しようとする。ジョンはわずかな間に、人間という存在の脆さと弱さをまざまざと見せつけられた。

 そして彼はあの日、自らその侮蔑の渦に身を投じた。

 見慣れたベイカーストリートの路上に、赤い水溜りが見えた気がして、ジョンは反射的に強く目を閉じた。忌まわしいあの日の惨状がフラッシュバックして、軽い眩暈を覚える。つきりと左足が傷んで、そのままソファに倒れこんだ。彼のおかげで改善されたはずのPTSDが、いつの間にか再発している。
 ぐるぐるとまわる眩暈特有の不快感。発作の収まるのを待つ間、ジョンは目を瞑ったことを酷く後悔した。暗闇は、あの日を思い出す。



"It's my note. It's what people do, don't they leave a note?"

"It's a trick. Just a magic."

"Nobody could be that clever."

"Keep your eyes fixed on me."

"I'm a fake."

"Stay exactry where you are. Don't move."

"Goodbye, John."




 まぶたの裏に次々と浮かび上がる記憶の断片が、容赦なくジョンを責めたてる。長らく見ていない戦争の悪夢にも似た感覚に、ジョンは耐えきれず小さく呻いて目を開いた。とたん、再び視界が歪む。胸の奥を何かがせり上がってきて、口内に嫌なすっぱさが広がった。これはまずい、と医者としての自分が冷静に判断するが、体はろくに動かず、ただ怯えたように小さく痙攣した。
「Bored」
 かすれた声で呟く。ぽろりと涙が零れ落ちた。
 発作の苦しさによる生理的な涙なのか、それとも彼を失ったことへの喪失感からのものなのか。おそらく両方なのだろう、とジョンはどこか他人事のように考えた。このような状況に頼らなければ泣くことすらできない性格なのは、自分が一番よくわかっている。


 彼はあの時、泣いていたのだろうか。
 死の目前で、自分に遺書を残している間に。
 演技が得意だった彼の、唯一演じきれなかった最後の虚構が頭から離れず、今でもジョンの中の傷を抉り出す。ジョン、と呼ぶ声が、伸ばされた左手が、彼の涙が。彼の生を表すすべてがまだ記憶に新しいのに、そばに感じられない気配がジョンをいつまでも苦しめる。きっと一生、消えることはない。世界はまたモノクロに戻ってしまったのだから。彼のいない世界は、ジョンが生きるには辛すぎた。
 
 
「Bored……So bored, Sherlock」


 つまらない。つまらない。駄々っ子のように繰り返しても、喪失感は埋まらない。かわりにただ暗く冷たい何かが胸に流れ込んできた。どろりとしたそれは人体から溢れ出た血液の感触に似ていて、酷く嫌悪感を覚える。彼もこんな気分だったのだろうか。
 please、と続けたジョンの声は、もう言葉にならなかった。


 静まり返ったフラットに、止まぬ雨音だけが響き渡る。彼が死んで18ヵ月と26日目のことであった。






気づいたら手が勝手に…
BBC版現代シャーロック大好きすぎて生きるのがつらい。ていうかぶっちゃけこいつらのせいで書きかけのテイルズ小説(メイン)が完成しない←






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