深海プラネタリウム ![]() 風は無い。物音も無い。光も無い。 おおよそ人の住む世界とはかけ離れた異空間。 そこで意思を持って動く生命体は彼以外になかった。 前へ前へと、ひたすらに歩みを進める、その靴が一歩踏み出すたびに、男の足元でぱしゃん、と水が跳ねた。 一瞬辺りに波紋が広がり、そして消える。その繰り返し。 どこを歩いているのかも分からないのに、男は進むのをやめようとはしなかった。 時折足を止めても、辺りを見回した後、再び歩き出す。 目的など無い。たが、そうする他なかった。 進まなければいけない、という一種の恐怖にも似た感情に男が突き動かされていたのは、ひょっとしたら過去にそうせざるを得ない状況を経験していたからかもしれなかったが、彼にそれを知る術は無かった。 ――男は、自分の名を知らなかった。 否、進まない時の淀みで長く過ごす内に、忘れてしまっていた。 名だけでは無い。真っ暗闇の孤独な世界は、彼から一切の記憶を奪い去っていった。 …ただ一つ。彼の胸の奥底に深く根付いた、哀しみと決意の込められた、罪の意識を除いて。 男は短く息を吐いた。 目を瞑って思い出されるのは、冷たい海水と、どろりとした生温かい血の感触。それ以上は何も浮かばない。男はもう一度小さくため息を吐いて、考えるのをやめた。 ぱしゃん、と再び歩を進めた時。 男の双眸が見開かれた。 遠くから、人の声が聞こえた気がした。 男は声のする方へと歩き出した。 ゆっくりだったそれはやがて焦燥の色を帯び始め、水の跳ねる音だけが辺りを包み込んだ。 『……様!奥様、男の子です。元気なお坊ちゃんです!』 ぱしゃん。 足元で一際大きく水が跳ねた。 今度は、はっきりとした人の声だった。たどり着いたそこは先ほどまでの闇ではなく、どこかの部屋のようだった。その周りだけは淡い光に包まれ、暗闇とそことを区切っていた。 まるで、夢を見ているようだ、と男はぼんやりと思った。 今まで、男は自分以外の有機体を見た事がなかった。それが今…目の前に、ある。 白いベッドに、若い女性がぐったりと伏せっていた。青白い肌に艶やかな黒髪がべっとりと張り付いている。 『奥様!目を、目をお開け下さい!』 隣には、生まれたばかりの赤子を抱く女性――助産婦だろうか――が必死でベッドに縋っていた。 「…無駄だ」 暗い瞳でそれを見ていた男が、ぽつりと呟いた。 黒髪の女性は、もう息をしていなかった。 ふいに、ぐらりと視界がうねった。 奥様、と呼ぶ悲痛な声と、赤子の頼りなげな泣き声がだんだん遠くなり、あたりを照らしていた光は数度瞬いて、消えた。 出産の場だった。身体の弱い母親だったのだろう。男児を産み落として、そのまま死んだ。 顔は見えなかったが。きっと、美しい女性だったに違いない。誰からも愛され、そして誰もがその死を悼むのだろう。 男は長く息を吐き出した。 彼女が誰で、先の現象が何なのかすら分からない。 なのに。 なのに、胸が酷く疼いた。 懐かしいような、温かい何かが根底を揺さぶって、むき出しのそこをちくちくと刺しているかのような感覚に、男は不意に叫びたい衝動に駆られた。 彼女は、誰で、あれは、何なのか。誰でもよかった。この胸の疼きの訳を教えて欲しかった。 しばらくして、男はつい、と顔を上げた。そして再度、歩き始めた。 このまま歩いていれば、その答えが見つかるような気がした。 ――それが無くした記憶の断片下あると、男が気付くのはまだずっと先のことだった。 ![]() クリス様…!! ← →next |