「ここの花、いつもきれいだね。君がお世話係?」 花と土の匂いが香るなかで顔を上げて、私はその人を視界に捉えた。 体育館裏にある花壇にしゃがみこむ私のことを、じっと見ている人がいた。 熱気がこもるのだろう、開け放してある扉に寄りかかり、先輩らしき男の人は柔らかく微笑んでいる。 緊張のままに無言で頷くと、気を悪くした様子もなく彼は続けた。 「園芸委員かあ〜。お疲れさま」 「いえ…先輩の方こそお疲れ様です」 「ああ、ありがとう。頑張ってね〜」 ひらひらと手を振って、その先輩はすぐに体育館内の空気に溶け込んでいった。 のんびりと会話をする様とは少し違った、ピリリとした雰囲気を身にまとってコートを駆ける姿をなんとなく眺めてしまった。 だって、正直驚いていた。 園芸委員なんて、所属していない生徒からすれば存在を知らない人の方が多い。 委員の中でも大半の無気力な生徒は一部に仕事を任せきりで、花壇や中庭で泥まみれな私たちに気付くこともない。 いじけているわけじゃない。 私は花も木も草も好きで委員会に入ったし、花壇の花々が頑張った分だけ綺麗に咲いてくれればそれで良かった。 この気持ちに応えてくれるのは、物言わぬ美しい花だけだと思っていたのに。 きれいだね、とお世辞でもなく素直に口にした彼から目が離せなかったことは今でもよく覚えている。 梅雨入りに近いあの日から季節はぐるりと一周して、私は二年生になっていた。 一つ年上の、あの先輩の名前はもう知っている。 穏やかな雰囲気で話す春日先輩は、後輩の女の子からとても人気があるひとだった。 先輩は日に一度、部活練習の休憩中に涼しい扉の近くでぼんやりする癖がある。 その時に花の様子を気にかけてくれるから、自然と話は弾んだ。 口数の少ない私でも、花の話となればいろいろと話題が出てくるのだ。 「あ、紫陽花」 ドリンクの容器から口を離した春日先輩が、私の足元を指差した。 花壇の脇に植わっている小さな紫陽花の木だった。 「もう咲き始めてるんだ」 「そうですね」 「去年は見なかった気がするんだけど」 「上手く花がつかなかったみたいで。今年は大丈夫そうです」 「そっか〜」 ふにゃっと春日先輩が笑う。 こうして私がいい経過を報告すると、決まって彼は自分のことのように喜んでくれた。 その笑顔を向けられたのは私ではなく愛らしい花たちだと分かっていても、どうしても嬉しくなってしまう。 頬が熱くなるのがわかった。 「名前ちゃんが丁寧に世話をしたおかげだね」 「ありがとうございます。でも、当然のことをしただけで」 「謙遜しない〜。ちゃんと知ってるよ、オレは」 また、だ。 私が花の世話にどれだけ心血を注いでいるか、先輩は知っている。 その事実をそれとなく言葉にされると、自惚れのような有頂天のような心地になってしまう。 ぽっぽっと火照る顔にうつむいても、春日先輩は変わらずにこにこしていた。 「春日。休憩終わりだぞ」 「お。今行く〜。じゃあまた明日ね、名前ちゃん」 岩村先輩に呼ばれて、春日先輩はすっくと立ち上がった。 いつも通り手を振って明日の約束をしてくれた彼が体育館内の喧騒に紛れていくのを見送った。 先輩は、知る人のほとんどいない花たちを愛でてくれる。 人目に触れない場で放課後を費やして、草木の成長に一喜一憂する園芸委員の存在を知ってくれていた。 何より、ここでひっそりと一人寂しく体育館裏の担当を務めている私に気付いてくれた。 そんなはずはないのに、彼に私という人間を見つけてもらえたような心地にまでさせられたから。 春日先輩はすごい人だ。感謝をしてもしきれない。 同学年や一つ下の女子生徒たちから人気があるのも当然だと思った。 そう、先輩は誰からも好かれるような人柄で、彼女だっていてもおかしくない優しさで溢れていて。 そんな当たり前のことを、私は一年かけて蓋をして、わざわざ目を背けていたのだと知った。 春日先輩が告白されているところを見てしまった。 放課後、日常となった花壇の手入れに向かった時だった。 体育館の角を曲がって、その先に二人分の影を見た私は、とっさに来た道を引き返してしまった。 会話も聞こえなかったし、見た姿は一瞬だったけれど。 ユニフォーム姿の春日先輩と、後ろ姿だけでも可愛い女の子が体育館の裏に二人きりでいた。 どんな状況なのか、さすがに察しがつく。 私はわざわざ遠い水道まで如雨露の水を汲みに行き、のろのろと重い足取りで歩いた。 何にショックを受けたんだろう。 春日先輩が告白されていたこと。 勝ち目がなさそうなくらい女の子らしい後輩の子が相手だったこと。 違う。 きっと一番は、勝手に私と春日先輩だけの場所だと思っていた体育館裏という場所に、あの子が踏み込んでいたことが悲しかった。 あの二人の姿が強く目に焼きついて、奥にあった花壇は霞んでしまっていた。 そこにしゃがみこんで、毎日泥まみれになっていた私も同じだ。 どんな人の視界にも入らない。もちろん春日先輩の目にだって。 再び体育館の角で立ち止まると、如雨露の中の水がちゃぽんと跳ねた。 一人で花壇のそばにしゃがみこんだ春日先輩は、指先で紫陽花の葉を撫でていた。 その背中を見れば、変わらず愛しさがこみ上げる。 「…春日先輩」 ぽつりと控えめに呼べば、こちらを向いた彼が笑う。 少し憂鬱めいた表情に期待してしまうのは、きっといけないことなんだろう。 「今日はずいぶん遅かったねぇ」 「あの…」 「さっきは気まずい思いをさせたみたいだからさ。戻ってくるの待ってたんよ」 ぎくりと身を固くした私に反して、春日先輩は穏やかな語調と笑みを崩さなかった。 逃げるようにあの場を後にした私を先輩はどんな風に思ったんだろう。 ただ居心地が悪かったから逃げたのだと、深読みしないでくれたらいいのに。 そう思ったけれど、春日先輩の見透かすように静かな瞳を前にしたら空しい願いだと知った。 「ごめん。ここは君の場所なのに」 「…えっ?」 「後輩の子に呼び出されて、場所をここに指定したのはオレだから」 謝罪の意が分からないでいると、先輩は反省をしたように頭を垂れて、また紫陽花の葉を撫でた。 どうやら私の居場所、仕事場を使ってしまって申し訳ないということらしい。 そんなことはない。ここは私だけの場所なんかじゃない。 ついさっき、それを思い知ったばかりなのだ。 でも、どうして春日先輩は暗くて人が寄りつかないような体育館裏を場所に選んだのだろうか。 人に見られたくないから?部活にすぐ戻れるように? 告白といえば屋上や放課後の教室なのではないかと、安直な思考回路の私は思ったのだ。 「さっきねえ、彼女が話を切り出す前に訊いてみたんだ。この花壇を見てどう思う、って」 ぽつぽつと言葉を落とす春日先輩の真意が掴めず、私は抱えていた如雨露を花壇の脇に置いた。 幾分か近付いた距離で、先輩は私を見上げて笑った。 「そんなことより私の話を聞いてくださいって、言われちゃったよ」 それは道理に適った主張だと思った。 こんな道端の花よりも、誰より素敵な彼への告白を女の子は優先してしまうものだろう。 けれど、春日先輩はそうは思わなかったらしい。 立ち上がった彼の手のひらがひたりと私の手首に触れたかと思うと、私の額は先輩の肩に押しつけられていた。 「オレだったら土と花の香りがする女の子の方がいいなあって、思っちゃったんだ」 「今日も名前ちゃんの話、聞かせて」 おはなの恋わずらい 20130624 ほら、おはなの匂いがする |