思い思いの一日はあっけなく、午前と少しで終わってしまった。 見送る側も見送られる側も名残惜しさは拭いきれなくて、ぐずぐずと校門の間際に溜まって帰ろうとしない生徒たちを、今日ばかりは先生も叱らない。 これで最後だと誰に言われたわけでもないのに、誰もが今生の別れのように泣いていた。 私も人のことは言えないけれど。 ここに来るだけで会える人たちがいる。 それは、なんて重い意味を持つんだろう。 単純なことに関係を支えられていたと気付いて、今更懐かしんで、けれど感傷に浸ってしまうのは仕方ないことだと思う。 すれ違った同級生の涙に、私はゆっくり息を吐き出した。 今日でいくつの涙がこの高校に落ちていくんだろう。
「先輩、卒業しないでください」
彼女と向き合って、負けないくらいに涙をこぼしている、後輩らしき女の子が言う。 そんなことは無理だと、叶わないと知っていて、それでも人は口にする。 いい先輩だった彼も散々に後輩から言われたのではないだろうか、そう思ったところで携帯が震えた。 メールではなく着信であることを確認して、ゆっくりと耳に押し当てる。 周りのざわめきから、彼の言葉を聞き落とさないように。
「はい、もしもし。宮地?」 「…用事済んだから、帰るぞ」 「わかった、校門の柱のとこで待ってるよ」 「ああ、すぐ行くから」
ずっ、と言葉の合間に寂しげに響いた音には気付かないふりをする。 お互いの後輩に見送られたら落ち合って、一緒に帰る約束をしていた。 私も、宮地も、この学校に明日から来ることはない。 考えてしまうとどうしても寂しくて、早く彼に来てほしい気持ちが募った。 見上げた校舎はお世辞にも綺麗とは言えないし、学校生活も全部が楽しかったとは言い切れない。 けれど、振り返ってみてこうも愛おしく思えてしまうのは、私の過ごした日々の中に彼がいたことが少なからず影響を及ぼしている。 間もなく現れた宮地の目のふちがうっすら赤くて、私は少しだけ苦しい気持ちになった。
「ちゃんとお別れできた?」 「あー、してきたしてきた。引き留められすぎて帰れねえかと思った」 「相変わらず照れ隠しが下手だね」 「うるせえ」
そんなに弱った声で悪態を吐かれても、こちらの涙腺が緩むだけだというのに。 並んで帰り道を歩き出して、式のことをぼんやりと思い返した。 推薦で受験が早々に終わっていた私と、文系科目のみならず全ての教科の成績を評価されていた宮地は、答辞を制作して読む係を当てられていた。 最後まで部活に全力を注ぐと決めていた彼の負担にはさせたくないと、ほとんどは私が内容を考えた。 律儀な彼は、「当日はオレが読むから」の一点張りで、宮地の引退後、時間を見つけて二人で内容を付け足していった。 登壇した宮地が透き通った声音で答辞を読み始めた途端、すすり泣きや小さな会話でざわめいていた体育館はすっと静まり返った。 三年間、確固たる意志を持って、自分の大好きなことに打ち込んで、その結果を恥じることなく受け止めた人物。 宮地にとって最後の試合をしたあの日のような力強い瞳に射抜かれて、在校生も卒業生も言葉を忘れて聞き入った。 彼は自分の努力を誇りに思っていたし、同じように努力を重ねた人には同等の理解を見せた。 そんな彼が、卒業生すべてを代表して、胸を張ってこの学校に別れを告げている。 今日が最後じゃない、寂しがることはない。 そう言い聞かせて、我慢して強がっていた私の気持ちをふっとほどいたのは、宮地だった。 自分も一緒に考えた答辞だというのに、宮地の澄んだ声ひとつで、私はその内容にぼろぼろと泣き出してしまったのだった。 答辞を終えて席に戻るとき、そんな私の姿を視界にとらえたらしい彼は、小さく笑った。 私の大好きな、困ったような優しい顔で。
「高尾くん、泣いてたでしょう。答辞の時に一年席で最初に泣き始めたのも、彼だったから」 「アイツ一体いくつなんだよ…四月から先輩になるっつうのに不安にさせやがって」 「緑間くんも寂しがってた?」 「…よくわかんねー。いつも以上に口数少なくて、突っ立ってるだけだから」 「宮地のことだから意地悪言ったんじゃない」 「用ないなら帰れっつった途端に眼鏡外して顔そむけて、オレが高尾に批難された」 「今日くらい優しくしてあげなよ」 「厳しくしてやんのが、オレの仕事だろ。あの部では」
前を向いて淡々と言い切った宮地の横顔に迷いはない。 あの部活でずっと務めてきた「厳しくてこわい先輩」という役割を頑なに貫いた彼は不器用で、優しいと思えた。 バスケ部の集まりは、少しだけ目にした。 泣きじゃくる後輩たちをしっかりしろと叱咤しながらも、盛大に見送られることに嬉しさと寂しさをないまぜにしたように笑う宮地の表情は、今までで一番輝いていたと思う。
「愛されてるね、宮地先輩」 「あー、知らねえ。なーんも聞こえねえ」
わざとらしく耳をふさいで首を振ってみせる、子どものような姿を笑う。 素直じゃない彼の手を離そうと指先を伸ばすと、不意にぎゅっとその手を握られた。 二人で何度も歩いてきた帰り道も終盤に差し掛かり、先ほどまでまばらに見かけた通行人もおらず、私たちは誰もいない夕暮れ時の道で立ち止まる。 じっと見上げた先の宮地が少しうつむいているせいで、綺麗な金髪がさらりと垂れ下がっている。
「もう、明日から秀徳の生徒じゃないんだな。オレたち」 「…うん」 「頼れる主将だった大坪も、チームメイトだった木村も、オレと同じ大学には行かない」 「それぞれがやりたいことは、違うからね」 「あのバスケ部は、生意気でムカつくけど実力のある奴らがまた引っ張っていってくれる。秀徳の不撓不屈の精神は引き継がれた、と思う」 「宮地は全部伝えて、後は任せられると思ったんでしょ?なら、大丈夫だよ」 「おう」
短く言葉を切った宮地がゆっくり吐き出したため息が震えているのがわかった。 声もだんだんと力をなくしていく。 夕日に透けてきらきらしている長めの髪に隠されて、表情は窺い知れない。 揺れる肩に目をやったとき、宮地が私へ寄り掛かるように身をかがめた。 制服越しに、私の肩に押し当てられた彼の肌がじんわりと熱かった。 その熱は体温だけではないのだと、小さく小さく漏れ聞こえた嗚咽で知る。
「…なんて、言えばいいんだかな。何ひとつ、不満はないんだ。でも悔いがないって言ったら嘘になる」 「うん」 「もっとバスケがしたかった。卒業なんてしたくねえって思ったんだよ」
苦しそうな言葉はよどみなく溢れて、どれだけの思いを彼が抱えていたかなんて、隣で寄り添う私にだって、完全にわかることはできないだろう。 肩に触れた涙はじわりじわりと冷たさを増して、私まで視界がぼやけそうになるのを何とかこらえた。 ふと、顔を上げて私から離れていった宮地の表情に呼吸を忘れる。 その震えていた声音とは裏腹に、彼が瞳に宿す意思の強さは少しも揺らいでいなかったからだった。 目じりに残る涙を乱暴にぬぐった彼は、薄く微笑んだ。
「わがままなんだよな。出来もしねえことばっかり」 「知ってる。宮地は結構欲張りだと思うよ」 「うっせ。…やっぱり、別れってもんはさびしいな」
額をこつんと触れ合わせてきて、至近距離の彼は穏やかな調子で本音をこぼした。 間近にある瞳は涙の膜で潤んでいて、言わないけれどとても綺麗だと思った。 この話はこれで終わりだというように、かがめた姿勢を元に戻した宮地は、晴れやかに笑って、「あー、情けねえ」と言った。 清々しく見えるその様子にほっとして、私はその目元にそっと手をやった。 指先でなぞると、まだ少し濡れている。
「このあと、バスケ部のみんなとご飯に行くんでしょ?先輩の威厳を保ちたいなら、泣いたってことバレないようにしないとね」 「こういう時に限って余計なことばっか言うよな、お前ってやつは」 「さびしくなったら呼んでね。迎えにいくから」 「は、自惚れんな。自力でお前んとこ帰れるっつうの」
いつもの意地悪な自信たっぷりの笑みを取り戻して、隣の宮地は私の頭を撫でた。 もう泣かされねえ、むしろ後輩どもを泣かす、と楽しそうに話し始めた宮地が自然と私と手をつないでいて、伸びる二つ分の影に切ないものを感じて、いよいよ泣きたい気持ちがこみ上げてきた。 泣いても泣いても足りなかった一日の終わりには、大切なあなたにそばにいてほしい。 彼が部活の仲間に見送られて帰ってきたら、思いっきり抱きついてもう離してやらないんだから。
ありったけの美しい色を持ってこよう
20130305 この門出にふさわしい色を |
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