それまで緑間くんと話していたはずの高尾くんが、ふいに笑顔を消してふらりと教室を出ていった。
昼休み。
そんな何気ない彼の姿を目に留めたのは私だけだと思う。
友人との昼食もそこそこに、彼を追うように席を立った。
まだ食べていない菓子パンを片手に階段を下りる前に、自販機へ寄り道していって炭酸飲料を一つ買った。
外靴に履き替えるのは億劫だったので、渡り廊下から逸れて上履きのまま地面へ踏み出した。
きっと高尾くんもそうしているだろう。
五限目が体育だと思われる男子が数人、中でボール遊びをしているのを横目に体育館裏に回る。
体育館には、使う人などいない裏口用の階段があった。
錆の浮いた階段は薄汚れていて、日陰になることも手伝って人が来るような場所ではない。
私がクラス以外ではじめて高尾くんをここで見かけた時と同じように、階段下の空間に置いてある雨ざらしのブルーシートに彼はしゃがみこんでいた。
距離を残したままにしばらく見つめていると、うなだれていた高尾くんが顔を上げて「あれ」とつぶやいた。
へらり、と笑った表情に力はない。


「名前さん、来てたの」
「…いまさっき」
「そっか」


はじめてここで見かけた時、高尾くんはとても頼りない様子で膝を抱えていたのだ。
びっくりしてその場から動けずにいると、にこりと微笑まれて「おいで」みたいな仕草をされて、無防備にふらふら歩み寄った私は一瞬で引き寄せられてその腕に捕まえられた。
それはいつも私のことを愛想よく「名字さん」と呼んで、何でもそつなくこなす彼ではなかった。
照れよりも驚きよりも戸惑いを抱かせた高尾くんの行動は数秒で終わり、すぐに私は彼の腕の中から解放された。
その瞳は相変わらず暗く沈んでいて。


「ごめん」

「さびしくて、つい」


その時の声音を忘れることができずに、私は懲りもしないでここへ来るようになった。
目の前の高尾くんは、やはり普段のような明るい笑顔も口調も見せない。
きちんと理由を問いただしたことはない。
なんとなく、さびしくて疲れた時にはここに来るのだろうと漠然と理解していた。
いつもと違う高尾くん。
たとえそれでも、人を惹きつける何かを持っている彼を、ここで小さくうずくまる彼を、放っておけない理由は何なのか。
考えることはずいぶん前に放棄した。
ただ、一人にしてはおけない人だと。
そう感じたから私はこうして彼の元へやってくるだけだ。


「こっちおいでよ、名前さん」


あの日と変わらず、悲しげな笑みを浮かべて高尾くんが言う。
ここにいる時、高尾くんは不思議と私を名字ではなく名前で呼んだ。
まるで大切な誰かを呼ぶように、いつもと違う呼び方で。
きっとこれは私自身を呼んでいるわけではないのだろう。
そう理解はしていても、その声に引き寄せられるように距離を詰めてしまう。
見下ろした先の高尾くんは憂鬱そうに首をかしげた。
さらりと黒髪が揺れて、私はそれに手を伸ばした。
くしゃくしゃとかき混ぜるように撫でると、高尾くんは目を閉じた。
言葉を交わすこともなく、しばらくそうして時間だけが過ぎる。
体育館内の喧騒が遠く聞こえるなかで、空いていた手に指先が触れてきたからどきりとした。
その指先が探るように動いてよく冷えた缶に触れてから、高尾くんはゆっくり目を開けた。
透き通った瞳が私を見上げる。


「コレ、買ってきてくれたの」
「いつも飲んでるでしょ」
「うん、これは好き。割と」


私の手のひらから受け取った炭酸飲料のプルタブに高尾くんが指をかけた。
この場には似つかわしくない軽快な音とともに、勢いよくジュースをあおった彼はため息を吐いた。
行儀は悪いけれど、私も立ったままパンの袋をバリリと開封する。
炭酸に顔をしかめた高尾くんは、私をじっと見上げて声を上げた。


「いっつも不思議なんだけどさ。名前さんも隣座ればいいのに」
「…制服だし」
「あーそっか汚れちゃうか。女の子は気にするよな、そーゆーの」


口内の水分を奪っていくパンを何とか飲み込みながら、私は高尾くんの言葉を聞いていた。
本当は違う。
あの日、はじめてここに来たときに感じた彼の危うさ、脆さ。
彼の隣まで距離を縮めてしまえば、おそらく私は引き返せなくなる。
どこに、という問題ではないのだ。
私が高尾くんのそばにいるのはそういうことじゃない、とぼんやり感じているだけ。
ただ近くで彼の言葉を聞いて、ここに立っていることくらいしか、私にはできないと知っている。
さびしいと求められれば手を差し出すこともあるけれど、本心では彼を怖がっている自分がいると、彼が知ったらどうするだろう。
きっと、どうもしない。
別にここに立っているのが私以外の誰かでも、高尾くんにとっては問題ないはずだ。


「もう一度なでてよ、名前さん」


飲み干した缶を傍らに置き、目を伏せた高尾くんは言った。
誰だっていいはず、なのに。
こんな風に言われて、請われてしまえば。
彼のさびしさをまぎらわすことができるなら、どんな優しさでも持ってきて、彼にあげたいと思ってしまうのだ。
さっきよりもためらいがちに手を伸ばすと、撫でやすいようにと彼がうつむく。
触り心地のいい黒髪がさらさらと指の間を滑る。
じっと動かないままでいる彼は、どんな表情でこの行為を受け止めているんだろうか。
気になってしまって、手は止めないまま身をかがめた。
覗き込むと、綺麗に睫毛に縁取られた瞳がぱちっと開いてぐいと腕をつかまれる。
この感覚は、あの日と同じだ。
私を軽々と受け止めて、肩先に頭をこすりつけてきた高尾くんはか細い声を出した。


「名前さんはさぁ、なんでそんなに優しいの」
「それなら、高尾くんはどうしてそんなにさびしいの」
「…なんでだろうね」
「私も、わからないよ」


じゃあ考えなくてもいいや、とつぶやく高尾くんが小さな子どもみたいで、私はまた頭を軽く撫でてあげた。
答えが出ないうちは、こうして意味のない慰めを繰り返していくんだろう。
しばらくして満足した高尾くんは自分から離れるだろうし、教室に戻った彼はいつも通り無邪気に笑うのだ。
私は時々、高尾くんがいなくてもこの場所を訪れることがあった。
いつもの場所に彼がうずくまっていないだけで、どうしようもない不安に襲われた。
きっとここはさびしさの溜まり場なんだ。
だからこんなにも悲しくなって、他人を求めたくなる。
けれど、この場所さえなくなってしまったら、私と高尾くんの間には何もない。
明るい日の光の入り込む教室で、私に向かって名字さんと笑いかける高尾くんにいつからか覚えるようになっていた違和感。
一番さびしくて他人を求めているのは自分じゃないか、と自嘲する。
この感情は彼と似ているけれど、同じではない。
私は、誰かではなく高尾くんでなければ嫌なのだから。
そんなこと言えやしないし、言いたくもない。
ただずるずるとそばにいて、「私」という存在に気付いてもらおうだなんて、少し虫が良すぎるかもしれないけれど。

20130217
(もうすっかり、さびしさに侵されてしまったよ)
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