ホームルームの時間が終わり、教室内はどこか週末に浮かれる空気に満ちていた。 金曜日にお決まりの賑やかさの中で、帰り支度をしようと手を進めながら、ふいに窓から見える景色に目を細めた。 もう少しすればグラウンドには運動部の生徒が満ち溢れるのだろう。 彼らにとって休日は無いものに等しく、それはバスケ部である彼も例外ではない。 でも、今日は特別だ。 この一日に限り人の集まらないだろう遠目の体育館を見て少し笑むと、廊下側から軽やかな足音が近付いてきた。 とっ、とっ、たん。 黒猫が機嫌良く尻尾を揺らしながら歩く様を思わせるそれは、彼独特のものである。 「名前」 柔らかな声に振り向くと、ふわりとした笑みを見せる彼が立っていた。 するりと自然に絡められた指から手をつないで、早く早くと小さい子が急かすようにするから、微笑ましい気持ちが湧き上がる。 「お迎えにあがりましたよー、なんつって」 「ご機嫌だね、和成」 「だって久しぶりだろ?今浮かれないでいつ浮かれるんだよ」 重ねた手をちょっと持ち上げる仕草までしてみせる彼は、気障というより無邪気な印象が強い。 小さく舌を出す和成とそれに笑い返す私を、彼の相棒が見たらきっと馬鹿馬鹿しいと呆れるに違いない。 それを笑って気にしない私たちはお互いのことしか見えていない、と言い切ってしまうのは惚気になるだろうか。 「帰ろうぜ。一緒に」 「うん、帰ろう」 彼と帰路を共にするために手早く用意を済ませておいた鞄を持ち、手を引かれるままに教室を出た。 帰りに寄り道を提案する数人の集まり、二人の世界に浸るカップル、意味もなく居残って喋る男子生徒。 廊下にはそんな姿がちらほらと見られて、私と和成もその中に溶け込んでいた。 周りに向けていた視線と思考は、先を行く彼の声にふと引き戻される。 「前にうちに来たの、いつが最後だっけ」 「遠征から帰った後の休みだから、二カ月くらい前じゃない?」 「うわー、結構空いてんな」 私たちにとって、たまにしかない休みの過ごし方は決まっている。 私が休みの前日から彼の家にお邪魔して、泊まりがけでのんびりと過ごす。 その度に彼は意気揚々とクラスまで迎えに来て、一緒に帰ることを楽しみにしてくれていた。 和成は、手が空けばいつだって私を優先しようとする。 この休日のお泊まりもその例の一つだ。 そのことが申し訳なくも有り難くて、和成が望んでいるということと私の嬉しい気持ちを考えて、前者の思いは口にしないようにしている。 オレが名前といたいんだって。 いつかの教室で大切そうに囁いた和成を思い出して、やはり敵わないと思う。 「体育館、やっぱり春休みに工事するんだってよ。オンボロだからなー、ウチの学校」 「雨漏りしてたよね。それで梅雨時の体育が大変だったの覚えてるよ」 「そ。他にもイロイロあるし、今日は修復箇所の点検するんだってさ」 そのために、バスケ部は本日の練習中止を余儀なくされたらしい。 改修工事の話自体は以前にそれとなく耳にしていた。 本工事が行われる春休み中はよその施設を借りて練習をする、と和成は言う。 「不便だけど決まったもんは仕方ねーよ。ま、こうしてオレは名前と帰ることができたし?悪いことばっかじゃないよな」 にかっと笑う和成にうなずいて、やってきた下駄箱で靴を履き替える。 つなぎ直した手で引かれる行き先におやと違和感を覚えたものの、足を止めることはしなかった。 自転車置き場にたどり着くと、和成は手を離し、乱雑に並んでいる自転車の列に歩み寄っていった。 何も聞かされず連れてこられた私はその動向を見守るしかできない。 「和成?」 「んー、ちょっと待ってて」 彼と自転車、といえば思いつくものは一つしかないのだが。 そう思っていると、やはり彼が引きずってきた代物は自転車とリアカーが連結したお馴染みのものだった。 こんな目立つものに乗っているおかげで、生徒や近所からはこのチャリアカーなるものが珍名物に認定されている。 私としては、いつか先生に怒られないかと少し心配になったりもする。 その心情が顔に出ていたのか、こちらを見やった和成は苦笑いを浮かべて言う。 「心配しなくても、これに乗れなんて言わねーよ。そんなのお前は恥ずかしがるだろ?」 「え、いや。そんなことは思わなかったけど」 「…よし、取れた」 ガチャガチャと何かをいじっていたかと思うと、和成はどこに持っていたのか手にしたドライバーをリアカーの方へ放り込んだ。 そして、ただの自転車だけを引いてこちらに歩いてくる。 放置されたリアカーと普通の自転車を交互に見やり、普段と違う光景に違和感を覚えた。 「自転車持って帰るの?明日必要とか?」 「ちげーよ、名前を後ろに乗せて帰ろっかなって思ってたの」 ポン、と後ろの荷台を叩く彼の言葉に一瞬呆けてしまった。 後ろに、ということはつまり、二人乗り。 頭の中に浮かんだ図式に、思わず大きな声を出してしまった。 「む、無理っ」 「ん、それどういう意味で?目立つからやっぱり嫌?」 「そうじゃなくて、ほら。重いだろうし…」 「わかってねーなー、名前」 言いよどむ私に、和成は少し得意気に笑ってみせた。 その表情は不敵な瞳と合わせてかっこいい。 「オレが日々リアカー引いて鍛えた脚力をなめんなよ。ってまー、やりたくてやってるわけじゃねーんだけどさ。お前一人くらい余裕だって」 「そうかもしれないけど」 「それとも彼氏を信じられないのかな、名前ちゃんは」 「う…」 その言い方はいろいろとずるくないだろうか。 ぐいぐいと押し切れば嫌とは言えない、そんな惚れた弱みを分かっていての行動と自信。 にんまりと笑んでいた表情は、不意に穏やかな空気を帯びて声を落とす。 「この前も提案したかったけど、天気悪かったしさ」 「大雨だったからね」 「だから余計に今日を楽しみにしてたんだよ。お前と二人乗り、一回してみたくて」 じっと期待に満ちた瞳を向けられて、私はもう降参だと言いたくなった。 ただでさえ、彼の澄んだ瞳にはいつだって心を動かされるというのに。 戸惑いはあったけれど、別に嫌だなんて思わない。 青春の代名詞、というか彼女の特権のような場所を、笑顔で用意してくれた和成の気持ちに嬉しさと気恥ずかしさを覚える。 「んで、どうする?本当に嫌なら無理にとは言わねーよ?」 「…じゃあ、和成。安全運転でよろしく」 「へへ」 私の言葉に、心底嬉しそうに表情を崩す和成。 ころころと変えてみせるいろんな顔は彼の素直さをよく物語っていて、つい見惚れてしまう。 視線を向けていたら、目が合った途端に軽く引き寄せられて、一瞬だけぎゅっと抱きしめられた。 和成の機嫌がいい時の癖だ。 私を少しの間だけ、愛情こめて捕まえる。 すぐに身を離した彼は置いていた自転車に跨り、その荷台へ視線を向けた。 「それじゃ、どーぞ」 その言葉に、おそるおそる自転車に近付く。 二人乗り、こんな経験は初めてだ。 おずおずと腰掛けた荷台は結構不安定で、長時間座っていると疲れてしまいそうだ。 下ばかりを向いて座り方を直していると、和成の視線を感じる。 「あーもー、ちゃんとつかまれよ」 小さく笑った和成に、細身の身体へと腕を導かれて、一気に心臓が跳ねた。 一回腕を回してしまえば最後、必死でしがみつく私を振り返り見てから、彼は地面を蹴った。 「う、わあっ」 「裏門から出るぞー」 より力をこめてしがみつく私を、ほど近い距離の彼がケタケタ笑う。 何だ、この状況に緊張しているのは私だけか。 いつもと同じ様子にちょっとだけ安心した。 落ち着くと、片手を肩に回す余裕が出てくる。 自転車は私の家へ向けて、軽快に坂を下っていった。 「泊まりの荷物取りにいくだろ?」 「あ、うん」 前方から身体越しに聞こえた言葉に声を上げる。 風は冷たいけれど、日射しが暖かいから心地いい。 触れた学ランの下でじわりと温度が上がったような気がした。 信号で止まると、それまで賑やかに走っていた道のりが嘘のように静かになった。 道路を走る車を前に、和成がゆっくり息を吐いた。 「大丈夫、疲れた?降りようか?」 「んなわけねーじゃん。そのまま乗っててよ」 「そう?」 「むしろ、今こっち見ないで」 彼の肩に置いていた手に熱い手が重ねられて、ぎゅっと握られた。 どうしても気になって覗き込むと、困ったような笑顔がうっすら赤らんでいる。 どきりとした。 「な、なんでそんな顔…」 「緊張してんの。わかれよ」 「…してるの?」 「後ろに大事なコ乗っけて、こんなにくっついてさ。緊張しないと男じゃねえわ」 信号が青になった。 他の人たちや車が動くなか、私たちの自転車は走り出さない。 ただ赤い顔でうつむく二人がいるだけだ。 20130130 青春をご賞味あれ |