「私、彼氏ができたんだ」 帰り道、数歩先を行く大きな背中がぴたりと静止した。 何でもないように、そう言い聞かせた自分の声は震えていなかっただろうか。 ぱっと振り向いた木吉の目がまんまるで、歩み寄る足取りは大きく、距離はすぐに詰められてしまう。 「本当か?」 「こんなことで嘘は言わないよ」 「それもそうだな。へえ、彼氏か…」 何度か不思議そうにうなずいた木吉がぽんと私の肩を叩いた。 「なんで立ち止まってるんだよ?」という言葉は、これを告げるのに私がいかほどの決心を費やしたかを分かっていない。 無論、知らなくて当然だし、知ってほしくはない。 そう思いながら歩みを再開させた。 鷹揚な彼の歩幅について行ける速さで。 「ふーん、へえ、彼氏」 「そんなに珍しい?」 「いや。どんな奴なんだ?」 にこりと笑みとともに落とされた言葉には純粋な好奇心だけがあって、当たり前だが少し落胆した。 その気持ちを振り払うように、すぐに思考を切り替えた。 こういう考えを捨てるために今日の私は行動したんじゃないか。 「サッカー部の人で、隣のクラス。いい人だよ」 「いい人、か」 「そう。いい人」 「なら、良かったな」 くしゃりと私を撫でる大きな手のひらの下で目を伏せた。 木吉ほどの「いい人」なんて本当は知らないから、こうして説明するのはおかしいような気もした。 何にでもそつがなく、当たり障りのない人を選んだつもりだった。 聞かされた告白にうなずく、私の行為は簡単だったけれど何度も迷った。 自分の心に不誠実を感じたりもしたけれど、木吉は私の友人でしかない。 負い目を感じる余地はないはずなのに、この空虚な気持ちはなんだろう。 「あ」 「どうかした?」 「あー…いや、な。ちょっと思ったんだが」 いつもなら柔らかに離す手のひらを、急に木吉が引っ込めた。 そのまま私と一歩距離を取り、戸惑ったように言葉を濁らせる。 「あいつ、お前のこと絶対好きだぞ」と日向くんは言った。 けれど、それを木吉以外から聞いたって意味がない。 彼自身がその感情を自覚しなくては、私は何もできない。 言葉という形で告げられて、そのことで確信を得なければ決して動かない、私は臆病者だった。 さびしい私は、埋め合わせに他の人を選んだ。 埋められるはずのない心の大部分を、隣の彼が持っていると知りながら。 「彼氏ってことは」 「うん」 「お前は今日から人のものなんだな」 何か気遣うように手を離した理由はそれだったらしい。 人のもの。 心を伴わない付き合いだから自覚はないけれど、もしかしたら彼をこれから知って、本当に好きになれるかもしれない。 その時こそ、私は人のものになるんだろう。 今の曖昧な私は誰のものでもなかった。 木吉のものではないし、もちろん、自分のものですら。 困ったような顔の木吉には微妙な心境を伝えず、少し笑うだけに留めた。 「変な言い方」 「でも、そういうことだろ?」 「そうかもしれないね。木吉と帰るのもこれが最後かな」 「…そうか」 あ、揺らいだ。 ぐらっと感情に揺れた瞳は何か言いたそうに私から逸らされる。 意地悪を言った。 最後にするつもりなら、付き合いはじめの今日にだって一緒に帰ったりしない。 けれど、私はもう彼女の肩書きを得てしまった。 得てしまったからには、彼女らしい振る舞いをしなくては。 人の彼女が彼氏以外と帰り道をともにするなど、普通は許されないだろう。 だから必然と、木吉と帰る機会は減る。 本当はその程度の認識だった。 「さびしいな」 だけど。 私を人のものと認めた木吉は、これから露骨に距離を置くだろうと思っていた。 友人なら何も気にせず今までと同じく付き合えばいいのに、素直で不器用な人だから。 そんな彼は今日の帰り道くらいは、と思ってくれているんだろうか。 あまり揺らがないでほしい。 意味のない諦めをつけようとしている私の努力が無駄に思えてくるから。 心の底から寂しそうな声と、いつもの笑顔が消えた表情と。 今の自分がどんなに魅力的に見えているか、木吉自身は分かっているのだろうか。 手を伸ばしたくなるような、憧憬。 「木吉」 「ん?」 「別に、今すぐ私が隣からいなくなるわけじゃないよ」 「…うん、お前の言うとおりだな。何を感傷的になってるんだ、オレは」 照れくさそうに笑った横顔に、自分が完全に彼の心を閉じ込めたと知った。 安心させるようなことを言って、友人という逃げ道を作って、何より早く自分が逃げ出していた。 伸ばしかけた手のひらは高い位置の肩を軽くさすって、すぐに離す。 当然ながら、彼の手のひらはそれを追わない。 ただ木吉は柔らかく笑うだけだ。 その手と手をつなぐことをどれほど夢見たかしれないというのに。 それでも私は、後押しされた彼の感情を欲しいとまでは思わない。 木吉自身が望まないなら、私もいらない。 「なあ、やっぱり一緒に帰るのは今日でやめにしよう」 「そうだね」 「きっとその方がいいだろうから」 やはり距離を置く、いらない優しさまで含んだ彼に笑い返した。 手にすると決めたものは背負いきれなくても諦めない、まっすぐな木吉に負担をかけようとは思えなかった。 だから私は隣にのんびりとした足音を聞くので十分だ。 忘れることはできない愛おしさがこみ上げる。 ああ、まだ、泣くな。 彼が心配してしまうから、なんて自惚れた予想かもしれない。 木吉、木吉。 たとえ離れても、私が呼んだら今までのように頭を撫でてほしい。 それくらいは、私だけにちょうだいね。 20130109 めぐったあとの話につづく |