ざぶりざぶりと耳に届くのは、波音よりもさらに優しい心地がした。
思わず一歩踏み出せば、海岸の砂浜にローファーが沈み、靴の中がざらざらになる。
うわ、と声に出してそれを払っていると、海の中に立っている誰かを見つけた。
しばらく声を掛けるのも忘れて立ち尽くしてしまう。
その広い背中にしっかりとした肩、潮風にさらりとなびく髪の色。

「緑間!」

見間違えようもないから呼んでみたというのに、膝までを海水に浸からせた彼は振り向かなかった。
その後ろ姿が不意にとても頼りなく見えて、次の呼びかけは喉の奥で消えた。
ざぶりざぶりと音を立てて沖へ沖へと歩みを進めるから、慌ててローファーとソックスを脱ぎ捨てる。
緑間も私も制服だ。
なぜ制服で海にいるのか。それは知らない。
裸足で砂浜を蹴るも、足が沈んで走りにくい。
波打ち際まで走り抜け、水の中に足を踏み入れるとまた一気に歩きにくくなった。
海水の重さに体を捕らわれながら、その背中を追う。

「待ってよ、緑間」

何を考えているのか。
やはり返事をしない緑間は少し斜め下の水面を見つめているようだった。
そこに何か映っているの?
問いかけるような思いで水をかき分けて進む。
私が立てる波音は緑間のそれよりずっと騒がしくて、耳に心地良くない。
あと数歩でその手をつかめそう、そんな場所で立ち止まる。
相手も歩みを止めたからだった。
緑間にとってはお腹のあたりくらいかもしれないが、そろそろ水面が胸の方までせり上がってきていて歩くのが苦しい。

「こっち向いて、緑間」
「…お前か」

ぐっと腕を引いて、正面から緑間を見つめた。
驚くより早く、私の頬や額に冷たい滴がぽたぽたと落ちてきた。
とめどなく静かに、緑間の瞳から涙が溢れ出している。
触れるのがためらわれるほど綺麗なので、私は落ちてくる涙の粒に手のひらをかざすだけに留めた。

「ずっと泣いてたの?」
「泣いてなどいない」
「そう。この海、緑間がつくったんだね。すごいなぁ」
「…うるさいぞ」
「でも緑間はすごいんだよ。こんなに綺麗なものを持ってるんだね」

そっと眼鏡に手を掛けて外せば、降ってくる雨が増した。
涙を拭いもしない頑固さは自分から溢れ出る感情を認めたくないらしい。
私の言葉にぐっと喉を鳴らして子供みたいな顔をする。
おずおずとその身を抱きしめると、すがるように彼の腕が回された。
緑間が泣くものだから、水嵩が増している。
このままでは二人で溺れてしまう気がした。
そこはきっと優しい世界だ。けれどそれに甘んじてはいけない。

「緑間」
「なんだ」
「すごい、けれど。もう一人でこんなところに来ないでね」
「…ああ」

寄りかかることさえできない、この人は。
信頼というものを覚えてから葛藤も戸惑いもあったんだろう。
その感情を完全に窺い知ることはできない。
私は彼ほどまでに努力を重ねた身ではないのだから。

「帰ろうか、緑間」
「そうだな。お前がつれていってくれ」
「…珍しい。人任せにするなんて」
「悪いか?」

すうっと波が引いていく。
見上げると、緑間の涙が止まっていた。
名残の滴をいくつか指先ですくい取ると、少し嫌そうな顔をされた。
今更照れることもないだろうに。

「いいえ。秀徳のエース様の仰せのままに、ってね」
「何だ、そのふざけた物言いは。誰の真似をしている?」
「わかってるくせに」

どちらからともなく手を取りあい、岸の方へ歩いていくと水面はどんどん低くなっていった。
ざぶりざぶりと背後で鳴る水の音は穏やかで、私は目を伏せた。
緑間だから出せる音。
心を表すような優しい響き。

「緑間を待ってる人がいるよ、たくさん」
「どうだろうな」

まったく素直じゃない。
その表情が柔らかに笑んでいるのは、わざわざ確認しなくてもわかることだ。
波打ち際を越える刹那、緑間が指を絡めるように私の手を握り直した。

「不安?」
「あり得ん。バカなことを言うな」

裸足で踏んだ砂浜はさらさらと熱く乾いていて、私たちがここに立っていると実感できた。
隣にある手のひらの感触を忘れないように、海から遠く離れた向こう側へ歩き出した。

20121228
おかえり
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