「(あ、白い)」
寒々しい廊下を足早に歩いていたのを思わず止めていた。 この季節に珍しくない光景だけれど、ふと目にした窓が他で見たよりことさら上手い具合に曇っていたのだ。 均一に薄く伸ばしたように白く、夕方になりかけの空の暗さが奥にうっすら見えた。 黒板のようなガラスに指先を置き、深く考えずに滑らせる。 特に理由はなく、ひらがなで。
「(み、や、じ)」
やる気のない丸っこい文字が出来上がったあと、最後の濁点に手を置いたまま、自分でも困ってしまった。 ここからどうしようというのか。 三文字だけ出来た暗い部分に、考えなしに行動した自分が映り込んでいる。
「…なに書いてるんだろう、私は」
本人に見られたら何を言われるか知れない。 無意識に彼の名前を出してしまうあたり自分も手に負えないな、とガラスを拭ってそれを消そうとした時だった。
「おい」 「…何でしょう、宮地くん」 「お前こそクソ寒い場所で何やってんの」 「眠気覚まし…かな」 「今日もう授業終わっただろーが」
聞き慣れた声に、できるだけ自然を装って宮地を振り返った。 本当、来てほしくないときほど会ってしまう。 私がこんな場所で立ち止まっていることを訝しんではいるものの、背後に何かあるとは気付いていないようだ。 しかし廊下を行き来する人が他にいない訳でもなく、さっさと消してしまえばよかったと、冷や冷やしながら後悔した。
「学ランって寒そうだね」 「ホントだよ。カーデ禁止だし、毎年辛いっての」 「セーター着れば?」 「厚着はいいけど、動きにくいのがやなんだよなー」
寒いからか、いつもよりのんびりした口調の宮地に少しほっとした。 この調子なら何事もなく済みそう、と宮地を暖かい教室へ促そうとしたときだった。 何気なく、ひょいと私の後ろを覗き込もうと彼が首を傾ける。
「さっき雨降りそうだったんだよな。うわ、真っ白で全然外見えねー…、なに」 「…何でもない」 「その変な体勢で言うか」
宮地が窓に目を凝らそうとしたから、思わず後ずさって壁に張りついてしまった。 よく見えないからとガラスを拭おうとして、彼があの文字を見つけたらと思うと、上手い弁解も出てこない。 じとっと私を見やる宮地の視線にまずい、と気が焦る。
「寒いし、教室戻ろうか」 「おー、そうしようぜ」 「……」 「……」 「…動かないの」 「いや、お前が動けよ」
これは完全に、何かあると悟られている。 にこぉ、と笑った宮地の顔がなに隠してんだよ、と物語っていた。 こうなったら背中を押しつけて消してしまえ、そう思いついて一瞬後ろを見やったとき、ぐっと手首をつかまれた。 しかも両方。
「あ、やっ」 「はっはーなに変な声出してんだオイ」 「何もないから!宮地は気にしなくていいから!」 「それ信じると思ってんの?」
まるで万歳をするような格好で宮地にがっちり捕まえられた。 大方私が宮地の悪口でも書いたと疑っているのだろう。 ここまでごちゃごちゃやり合うと、何だただの名前じゃん、と結局のところ怒られそうで嫌だ。 足だけでその場に留まろうとしたのはやはり無駄な努力で、宮地が軽く引っ張れば、つんのめった私は彼の身体に顔をぶつけるはめになった。
「どれどれ、一体何をそんなに隠して…」
それなりに時間が経っていたし、また曇って消えていないだろうか、そんな私の期待はぴたりと言葉を止めた宮地によって打ち消される。 しばらく窓を見つめたあと、視線を戻してから宮地は私の赤いだろう顔に戸惑ったらしい。
「…これお前が書いたの」 「…うん」 「バっ、」
両手をつかまれた姿勢で向き合っているものだから、宮地がぶわっと顔を真っ赤にしたのがよくわかってしまった。 言葉に迷ったらしく、怒っているのか照れているのか判断しかねる表情で言われる。
「バカか!お前ほんっと…轢く!轢く轢く轢く!」 「四回轢くってそれはさすがに」 「るせえ!」
私の言葉にかぶせて叫んだ宮地が、これ以上何も言うなという風に私をぎゅーっと押さえつけた。 少し強めに抱きしめられて、私たちは何をやっているんだと笑ってしまった。 そんな私を不可解そうに宮地が見下ろす。 空気が冷たいせいでまだ赤みが残るその頬と耳を見て、白状してしまおうと思った。
「言っておくと、無意識だから」 「…ますますタチわりーな、それ」
ちょっと身体を離した宮地が、もう一度ぎゅっとしてきた。 さっきより不服そうな顔だけれど、さっきより優しい手つきで。 少し違う意味で笑うと、むうと口を曲げた宮地が「笑うなっ」と言った。 それが全然怖くないことに自分で気付いているんだろうか。
20121212 冬も悪くないね。君はあたたかい |
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