夏場の水辺とは、とても魅力的なものだ。 しかし、私と隣の宮地はそれをこれからぶち壊す張本人であり、何も知らないプールの水面はゆらゆらと呑気に光っている。 デッキブラシの柄に置いた手にさらに顎を乗せて、宮地はダルそうにしている。 身長が有り余っているせいでその格好がとってもだらしなく見えることは言わないでおいた。 「なー、オレの記憶が正しけりゃプール開き前の掃除もバスケ部が駆り出されたよな」 「そうだね。高尾くん水浸し事件とか緑間くんの眼鏡消失事件とか、楽しかったね」 「楽しかったのかよ」 宮地の言う通り、確かにまだ肌寒い時期に秀徳バスケ部は藻とアメンボだらけで悲惨なプールを現在のぴかぴかの状態にした。 監督からあれだけ真面目にやれと仰せつかっていたのに、一年生(特に高尾くん)がまあ色々とやらかしてくれたのだった。 あの日は宮地の暴言もまた一段と冴えていた。 そこから先はあまり思い出したくない。 「それらが原因で起こった大坪ブチギレ事件は楽しくなかった…」 「…そうだな」 横たわる沈黙。 二人して思い出したことは同じと見える。 あまり主将を怒らせるものではない、と高尾くんも少しは反省しただろう。 これでしばらくは平和だと思いたい。 身をかがめた姿勢のまま、宮地が私を見やる。 ジャージ姿に裸足という軽装の上半身で、浮いたシャツの隙間から背中がちらりと覗いた。 「それで、なんでオレらはプールを前に二人で途方に暮れてんだっけ?」 「監督が言ったからだよ。お前らはよく出来るから、今日の英文法の授業くらい出なくてもいいって。二人だけでもいいから掃除始めとけって」 「オレら何年生?」 「三年ですね。もっと言うなら受験生」 「ありえねーよ。ふつー教師が生徒にサボり勧めるか?職権乱用すぎっぞ、あのオッサン」 「まあ、この時間が終わればみんな来るでしょ」 宮地は成績がいいし、私は選手ではなくマネージャーだから尚良しと、何がいいのか分からないけれど二人選ばれて教室を追い出されたのは、ほんの少し前だ。 よほどプール清掃を早く済ませてバスケの練習をさせたいのだろう。 運動部に押しつけられる学校の雑務、という典型的パターンはこの学校も例外ではないが、なにせ王者秀徳である。 プールで遊び半分の掃除をするよりは、その時間で走り込みをした方がまだマシということだろう。 「…お前、バカだけど頭はいいんだよな」 「ありがとう」 「褒めてねーよ」 「成績悪かったらこの部のマネなんて務まりません」 「ま、もっともな話だな」 それにしても、二人だけというのは本当に出来ることが何もない。 私たちに渡されたのは放課後までの一時間とデッキブラシ、バケツその他諸々。 けれど、道具があってもやる気が備わっていないのだから意味がない。 この授業が終われば、有り余るほどの部員らが加勢に来るだろう。 本番はそれからだ、とウチが人数にだけは事欠かない大所帯という事実にかまけて私も宮地も動かずにいるのだ。 残暑はまだ厳しく、じりじりと照る日差しが私たちを焼いていく。 そんなとき、目の前のプールがとても魅力的に映って、じっと目を凝らす。 「ねえ、宮地」 「なんだよ」 「プールに水を張るのって、丸一日かかるんだって」 「へえ」 「手間暇かけてバスケ部がきれいにしたのに、もう終わりなんてなんだかもったいないよね」 「…なに考えてんの」 さすが察しがいい。 私が何か企んでいるのにはすぐに気がついたようだ。 宮地が気だるそうな体勢を直すと、支えを失ったデッキブラシがカランとプールサイドに転がった。 「泳ごう。じゃなかった、ちょっとだけプールで遊ぼう」 「本音が出たぞ」 「とはいえ、水着はもう持ってきてない」 「そーか。なら潔く諦めろ、ジャージじゃ泳げねーよ。濡れたら困るし」 「いや、もう決めたから。付き合ってね、宮地!」 「…おい、待てやめろバカ轢くぞ名前っ」 宮地の腕に飛びつくようにして、全体重をかけてその長身をプールに向けて押しやった。 思いきり引っ張られた身体が二人分傾き、一瞬だけ浮遊感に包まれる。 まさか本気とは思わなかったらしく、焦った宮地の怒声はばっしゃーん、という派手な水音に飲み込まれた。 ごぽごぽと水の中特有の音に包まれたのもつかの間、すぐに二人揃って浮き上がった。 すっかり涼しい心地に気分が良くなった私とは反対に、髪からぽたぽたと滴をいくつも垂らす宮地の笑顔が暗く歪んでいる。 「てっめー…おいどうすんだよ。オレにずぶ濡れで部活しろってか?あ?」 「部活してるときも汗だくだし、見た目そんなに変わんないよ?」 「変わるわボケ。沈められてーか」 「色々気にするのもいいけどさ。いま気持ちいい方が楽しいよ、宮地」 晴れやかに笑うと、宮地がちょっと黙った。 諦めたのか慣れたのか、彼は私の無茶なわがままを以前より受け流してくれる。 思い返せば、そのあとの発言が良くなかった。 「それより、あはっ、宮地ってば髪ぺたんこ!いつもふわふわヘアーなのに」 「褒めてんのかバカにしてんのかどっちだよ」 「褒めてるよ。可愛い」 顔を乱暴にぬぐい、濡れた前髪を鬱陶しそうにかきあげた宮地がふー…と静かに息を吐いた。 その様子は比較的穏やかで、だから私は、笑ったことと可愛いと言ったことに彼がそこまで怒っているとは露とも知らず。 なおも笑い続けていると、ちゃぷんと波を立てて宮地が一歩距離を詰めてきた。 「はー…お前、いい度胸だわ。思い知れ」 「あははは、っんむ!」 ざぶんと音がしたかと思うと、一気に酸素が遠ざかった。 日差しがキラキラと差し込む水面は宝石のようで、頭上の景色をぼんやり見上げた。 ぐっと唇を押しつけたと同時に私をプールへ引き込んだ宮地が、目の前で笑ったような気がしたけれど、水中でゆがむ視界ではよく分からない。 重ね合わせた唇からはとめどなく空気が泡になって漏れて、二重で息ができない状況に頭がくらりとした。 瞬間、宮地が私の肩をぐっと掴んでプールの底を蹴った。 ざばっと水をかき分けて浮かび上がった途端、私は盛大にむせた。 肺がびっくりしたような感覚に、必死で呼吸をくり返す。 「っげほ!…はぁ」 「どーだ、懲りたか」 「…まさか本当に沈められるとは。冗談キツいよ」 「あー、悪い。我慢できなかったもんで」 「何が?」 「聞きてーの?オレの口からわざわざ」 楽しそうに笑った宮地がすいと近付いてきて、あわてて身を引けば、私の心境を表すような水音がうるさい。 とん、と壁に背中がぶつかると同時に、私が逃げないようにとプールの縁に手を置かれる。 ゆっくり首を傾けて、もう一度唇を寄せてきたのは水も滴る何とやら。 まったく、心臓に悪い。 「どんなに腹立つようなふざけた状況でも、二人っきりには違いねーよなってことだよ。お前、覚悟してんの?」 「…いや、でもそろそろ」 私が言いかけたのを遮るように鳴り響いたチャイムと、「いっちばん乗りー!」とテンション高く叫んだ声。 聞き覚えがある、と二人でそっちを見る暇もなく、隣でドバーンと盛大な水しぶきが上がった。 「っひゃー、気持ちいー!…あれ、先輩たち何やってんすか?プールの中で」 「よし。高尾、お前小一時間ほど沈んでこい」 「ちょ、それ死にますって!」 高尾くんの飛び込みで再度頭から水を浴びせられた宮地がキレた。 タイミングからして、鐘が鳴る前に教室を飛び出してきたのだろう。 「だって暑くて!」と言い訳している彼と思考回路が同じ自分に、さすがに呆れた。 遅れてやってきたらしい緑間くんがこの惨状を見かねて、追いかけあっている二人をよそに私だけプールから引き上げてくれようとした。 その手を強く引っ張ると、緑間くんまでプールに落っこちた。素直すぎる。 ゲラゲラと笑う高尾くんの隣で、宮地までもが私たちを指差して笑う。 日差しはまだ暑く、空は青く綺麗でプールへの未練は尽きない。 さて、大坪と監督が来るまであと少し。 20121208 もちろん怒られました |