今の季節の空気は好きだ。
日に日にすうっとした冷気を帯びていく風は澄んでいるようで、どこか深く息を吸い込みたくなる。
何より、私の一番好きな花が咲く。
その存在を色の華やかさより、香りで知らせる金木犀だ。
その芳香が強くかすめ、閉じていた瞳を開いて景色をぼんやり眺めた。
ここは、どこか。
暫し時間を要したものの、自分が眠気のあまり午前の授業を途中で抜け出していたことを思い出す。
そうして敷地内の中庭の樹の下でうつらうつらとしていた。
校庭に喧騒すらないところを見ると、昼休みも終わりかけなのかもしれない。
午後くらいは授業に出なくては。

「…あらら」

携帯を確認して思わず声が出た。
未読メールと着信履歴がいくつか。
「今どこ」とか「メール返せ」とか、短い言葉がぶっきらぼうに並ぶ文面に苦笑いを浮かべてしまった。
全部、同じ相手からだ。
校舎に向かうアスファルトの道をぱたぱたと走って、その軽薄な足音に、自分が上履きで外へ出ていることに気付いた。
気付かずにそのまま出てきたとは、どれだけ眠かったというのか。
早足で下駄箱に駆け込むと、ちょうど外靴を取り出そうとする彼と目があった。
驚いた瞳はすぐに不機嫌そうに細められて、ゆるく首を傾げたために金髪がさらりと揺れた。

「ったく、今までどこ行ってたんだよ」
「ごめん、連絡しなくて」
「教室で待ってても戻ってこねーし、校内探し回ったあげく迎えに来てやったんだぞ」
「健介には悪いことしたと思ってるよ」
「…懐かない猫でも相手にしてる気分だな」

少々皮肉の混ざった口調で、しかしそんなに怒っているようでもなく彼は言い放つ。
ぐちぐちと言わない性分なのは知っているけれど、それに甘えすぎるのも良くないな、と一人密かに反省した。
手にした靴を再び下駄箱へ雑に突っ込むと、健介も上履きのままこちらに下りてきた。
じ、と私を見つめて口を開く。

「名前、外で寝てたのか?」
「うん。気持ちよかった」
「好きにしていいけどよ、風邪ひくぞ。冬なんてすぐそこなんだから」

こちらの温度を探るみたいにひょいと手を握って、そのまま踵を返そうとする。
けれど、急に彼がぴたりと動きを止めて振り向いた。
視線は私の頭上あたりを向いている。

「あ」
「なに?」
「ちょっと動くなよ。髪に何かついて…」

言いかけた彼が一瞬だけ間をおいて、伸ばした手でそのまま引き寄せるみたいに、ぎゅーっと抱きしめてきた。
衝動に駆られた感じではなく、何となく気ままに、といった落ち着いた様子で。
その余裕のある表情に少しだけ動揺したことは口にしないでおく。
ふと視線を落とした先に、ぽたりと小さな小さな橙の花が落ちる。
ああなるほど、と納得した。

「いい匂いすんだけど、何これ」
「さっきまで金木犀の下で寝てたからね」
「キンモクセイ?」

ぴんとこなかったのか、微妙にズレた発音で彼が言う。
その木の特徴をいくらか話すと、すんと鼻を鳴らした健介が何度かうなずいた。

「あー、知ってる。今思えば匂いも知ってたわ」
「毎年この時期くらいになると見るでしょ」
「お前好きなの?」
「うん。健介は?」
「別に、普通。でも桜みたく季節がわかりやすいなら、良いんじゃねえの」

ぼんやりとした回答ながらも、なんだか自分の気持ちを肯定してもらえたような気がした。
香りが強いゆえに苦手とする人もいるから、そう言い切られたらいやだなぁと思っていたのだ。
それより、と私の内心を知らず健介が付け加える。

「お前を待ってたから飯食ってねぇんだよ。あー、腹減った」
「あ、そういえば。私も食べてないや」
「ほら、さっさと戻るぞ」

そのとき、先ほどのままの体勢で密着していた二人の身体の間でぐう、と音が鳴った。
ちなみに今のは健介の方から聞こえた。
思わず顔を見合わせて、揃ってくつくつと笑えば、お互いの振動が触れ合っている部分から心地よく伝わる。
照れ隠しの気持ちもあるんだろう。
しばらくして、笑いの余韻がにじむ甘ったるい声で健介が言った。

「だぁから、言ったろ。腹ぺこなんだって」
「もう間に合いそうにないよ。ちゃんと食べてから遅れて授業出よう」
「そうすっか」

のんびりと言い放つ私たちには危機感というものがまるで見られない。
他に人気のない昇降口近くでは咎める誰かも居やしないから余計に。
ふと振り返ってみれば、外では穏やかな風が吹いて木を揺らしている。
金木犀の香りが流れ込んできて、深呼吸すると胸いっぱいに満ちた。
私を見下ろしていた健介がぽつり言った。

「名前」
「なに?」
「こっち向いて」

何となく言葉で察したので、軽く上向く角度で健介を見上げた。
きちんと彼が視界に入るより早く、薄いくちびるが撫でるみたいに触れていった。
挨拶みたいなキス一つで身を離した健介は真顔で言った。

「やっぱキスじゃ腹膨れねーわ」
「なにそれ。変なこと考えるね」
「いいじゃん。お前いい匂いするからさ、もしかしてと思って」

大真面目に言ったかと思うと、急に表情を崩して笑うから、どこまで本気かわからない。
ただ、彼がこの状況を楽しんでいることにはすぐに気付いた。
私がふらふらといなくなって、それでもきちんと彼の元へ戻るのが内心嬉しくて仕方ないのだ。
はまってるなぁ、と思ったけれど自分も健介のことばかりは言えない。
呆れることなく、変わらず私を探して見つけてくれるのなんて彼くらいだから。

「健介」
「ん、どした?」
「そういう、健介の素直で優しいとこ好きだよ」

改めて言葉にすれば、彼の表情がまた一段と嬉しそうなものになった。
「そんなこと言ったって、奢らないからな」という気恥ずかしさを誤魔化すような言葉には思わず笑ってしまった。
彼に手をひかれながら、思う。
いつまでも私を捕まえていてね。

20121029
花の香に酔ったみたいに甘いんだ
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