昼休み突入を告げる鐘が鳴る。 早々に席を立ち上がる生徒は少なく、誰もが気だるげに息を吐いている。 特に珍しくもない光景の中で、隣席の友人が言った。「忠犬が来るよ」、と。 途端、廊下側の席である私の真横の扉がガラリと開く。 視線を向けた先には、にまーと笑う男子生徒が一人。 「お昼っス、名字さん!」 「うん、そうね」 授業を終えてからものの二秒で離れたクラスから飛んできた黄瀬くんを「わんこー」と友人が後ろから揶揄する。 本人は特に嫌な顔も見せず「名字さんのお友達さん、こんちはっスー」と返している。 彼女にはきちんと素敵な名前があるのだけれど、黄瀬くんは口にした試しがない。 「名前で呼んであげてね」 「う、すんません」 「忠実だねー、黄瀬くん。モデルの使い走りなんてどうやって手に入れたのよ?名前」 もちろん冗談めかした口調でだが、友人がそんなことを私に言う。 すると、むっと口を曲げた黄瀬くんが聞き捨てならないと言わんばかりの表情をする。 普段はやわらかな笑顔が、何かの拍子に長い睫毛のある目をきりりとさせる瞬間は、不思議と好きだった。 真剣な黄瀬くんはいい表情をする。 「人聞き悪いこと言わないでほしいっス!勝手に付きまとってんのは俺なんスから」 「黄瀬くん」 「はい、名字さん」 「もし怒るとしても、それは私自身だと思うの。それより黄瀬くん自身のことには怒らないの」 「…いいんスよ、俺は。名字さんの近くにいる理由があるなら」 袖を引き引きたしなめると、拗ねたようにだんだんと声を小さくしてしまった。 黄瀬くんにも怒ってないよ、と付け足せばこくこくと必要以上にうなずいていた。 また友人が「わんこー」と、はやし立てる。確かに。 「名字さん、俺はただの男子高校生だって、忘れないでほしいっス。単に、名字さんのことが好きなそれだけの奴だって」 「わかったわかった」 普通の男子高校生ならば、バスケ部一年エースでも売れっ子現役モデルでもないのだろうけれど、彼が悲しそうな顔をするので極力忘れようとしている。 しょげた表情だってきれいだ、と思いを馳せるあたり、私も彼にほだされている。 不意に伸ばしかけた手は、ぱっと顔を持ち上げた彼自身によって阻まれた。 もう先ほどの物憂げな色はない。 「せっかく一緒にいるんだから、楽しい話しなくちゃ損っスね!ほら、名字さんの好きなバナナロール買ってきたんスよー」 「…ありがとう」 差し出された購買のパンを受け取った。 人気の商品で、私が気に入っているものだ。 一度、物を買ってくれるのは周りから見た関係に誤解を生むのではないか、と言及したことがある。 使い走り、なんて不名誉な言葉は彼に似合わないからだ。 しかし黄瀬くんは「好きな人に好きなものあげて、喜んでほしいんスよ」とこの上なく極上な笑顔をくれたから、何も言えなくなってしまった。 なので、目下のところ私はどういう形で彼にお返しすべきかと真剣に悩んでいる。 「あ、カフェオレも!お気に入りなんスね、これ」 「おいしいから」 「そっスかー」 にこにこと何のてらいもなく黄瀬くんは笑う。 こんな風にお世話をされて二週間ほどだろうか。 私は一応、このことについて真面目に考えていた。 日々思うのは、黄瀬くんのことばかりだ。 なんたって日常を彼が占めていく。 彼には異性に対しても同性に対しても、自分を意識させる魅力がある。 「黄瀬くん」 「ん?」 「話があるから、今日は一緒に帰ろう」 わずかに目を見開いた彼がびくっと身構えるのがわかった。 彼ほどの人ならば異性に「話がある」なんて言われれば自信を持って何かを期待してもいいと思うのだけれど、黄瀬くんの瞳に滲んだ色は怯えに似ていた。 ただ無条件に彼を側に置くということが、私には無責任なことのように思えた。 だから本人にきちんと話すのだ。 「…部活あるんで、遅くなるっスよ」 「平気。待ってるから」 「じゃあ、お手柔らかに頼みます…」 途端に語調が弱々しくなった黄瀬くんは、よく分からない言葉を残して退散してしまった。 それでもきちんと扉は閉めていくあたり律儀であり、周りの言葉を借りるならば「忠犬」であるのだろう。 しかし、黄瀬くんは犬でも召使いでもないのだ。 その先入観を払拭するためならば、何だって言おうと思っていた。 結果、予想だにしなかった展開になった。 放課後しばらくして、部活上がりの汗だくで息も絶え絶えな黄瀬くんが教室にやって来て、開口一番こんなことを言った。 「捨てないでほしいっス」 引き留めるような言葉である割に、相変わらず彼は不安に満ちた目をしていた。 果たして練習に集中できたのか、気になりはしても黄瀬くんの実力は折り紙付きである。 私が心配することでもないと思い直した。 彼の勢いは、止まらない。 「なんか足りないなら身に付けるし、出来ることなら、いや出来ないことでもやってみせるっスよ。だから、名字さん、」 「黄瀬くん」 「……」 「そういうことじゃないの。けじめをつけようと、思って」 ひらりと制止するように手を上げれば、何か言いたげな表情ながらも黄瀬くんは黙り込んだ。 とても背が高い彼を相手にしているのに、私はどうしても視線が下を向く。 彼が思い違いをしていて、落ち込んでいるのが伝わってきてしまうのだ。 「黄瀬くんにいくつかお願いがあります」 「…何でも聞くっス」 「ひとつ。やっぱり物を買うのはやめてほしい」 「はい、わかっ…え?」 「ひとつ、困った顔一つせずに物を貸してくれるのも、やめてほしい」 「ちょ、ちょっと待って」 慌てたように黄瀬くんが口元を押さえた。 不安の代わりに驚きが満ちた瞳で、こちらを覗き込んでくる。 彼を混乱させるのは心苦しいのだけれど、つとめて落ち着いて話そうと、息を吐いた。 「私に関するお世話を、やめてください」 「でも、だったら俺が近くにいる意味なんて…」 「もちろん、この二週間はとても楽しかったし嬉しかった。でも、それは黄瀬くんだったからで、こういうのは少しちがうと思うよ」 「お役御免っスか」 「うん。でもその代わり、友達になろう、黄瀬くん。あなたとの関係はそこからだと思うの」 その固く握りしめていた手のひらを取って、一方的な握手をした。 彼が驚いた表情をするが、思えばきちんと触れ合ったのは初めてだ。 おそるおそる、彼の手が私の手を握り返した。 「私が間違ってたら怒ってほしいし、何でもないことで笑ってほしい。全部肯定なんてしなくていいよ」 「名字さん、今まで嫌だったんスか?」 「うん、少しだけ。居心地がいいのに、どこか違和感があったから」 「…容赦ないっスね」 黄瀬くんが苦笑いをした。 これも初めて見る表情だったけれど、なんだか素の彼を覗けた気がして嬉しい。 「今までの分、私にも黄瀬くんのお世話をさせてね」 「それはちょっと、恥ずかしいんスけど…」 「いいよ、許可なんて取らない」 「俺、結構めんどくさい奴っスよ」 「薄々気付いてた。それで私は、結構しつこい人間なの」 「…はっきり言ってくれちゃって」 気を悪くしたかと思いきや、うっすらと笑う黄瀬くんは落ち着いている。 最初の狼狽ぶりが嘘のようだ。 向き合うのはこれからなんだと実感する。 「でも、そういうところが好きっス。名字さん」 「友達って言ったのに、早速ずれてる」 「一番早く、友達として見られなくしてみせるっス」 自信ではなく、確信を持って言った彼には、敵う気がしない。 彼の思惑に飛び込んだばかりの私の手のひらは、黄瀬くんに握られて、もう離れない。 20120712 そしてこんにちは |