「黄瀬、夜の屋上につれてって」
机に置いていた俺の腕の、制服の袖をゆるく引っ張りながら彼女は言った。 ちょうど立ち上がろうとしたところで、中途半端な姿勢で座ったままの彼女をじっと見下ろす。 俺の袖を引く力はあまりにも弱々しかったが、その目は凛とした静けさを湛えてこちらを見返していた。 そして、自分で確認する。 これは青臭いデートの誘いではない。 彼女にとって必要なことなのだ、と。 だから、にっこり笑って返す。
「いっスよー。今夜っスか?」 「うん、今日行きたい」 「じゃあ午後練終わったらいつもみたく」 「待ってる」
言うなり、彼女は微力すぎた手を袖から離した。 かといって、そのまま机に突っ伏すような真似はしない。 彼女の常に伸びた背筋は正しく、綺麗だ。 いつだってきちんとした彼女がどこか不調であると、その姿から誰が気付けるだろう。 知っている俺さえ、それをこんな騒がしい教室のただ中では口にしない。
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彼女は、生きるために月の光を必要とする人だった。 理由は本人にも分かっていないらしい。 ただ、彼女の家系の女性は漏れなく月の光を浴びないと、弱りいつか死んでしまうのだそうだ。 一家の教えならぬ、一家の習慣とでも言うべきか。 最低なら月に一度か二度の頻度でもいいと彼女は言う。 それでも多いに越したことはないのではないか、と何も知らない俺は思う。 今は六月。 彼女が最も苦手とする季節だ。 雨の日が続くと、どうも調子が優れないと言っていた。 だから、梅雨の間は晴れている日を見つけては、早めに月光浴をするのだそうだ。
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俺が彼女について知ったのは少し前で、きっかけは単なる偶然だった。 バスケの練習で一段と帰りが遅い日、空は暗く星が光っていた。 近道に、と滅多に人が通りかからない裏庭を駆け抜けたところで、錆びたベンチに目を閉じて座る彼女に出会った。 具合が悪いか、もしくは眠っているのか、と考えかけた思考はすぐに止まった。 彼女が月光を浴びる姿は普通の人間とはちがう。 有り体に言ってしまえば一目惚れ、だったのだろう。 目を開いた彼女は俺の姿を捉えて、狼狽えるでもなく自分に関する仔細を語ってくれた。 自分さえいいと思えば、月光浴の姿を見られた相手には全てを語るのが決まりだという。 素直にそのことまで打ち明けた彼女は、俺にとってただのクラスメイトではなくなっていた。
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「お疲れ様っスー」
挨拶もそこそこに、練習後のぶっ倒れそうな身体に鞭打って夜道を駆ける。 だんだんと日は長くなっている、と空を見て思った。 冬なんかは練習を終えて外に出ると、身を切るように寒いし、目が慣れるまでは何も見えないくらい真っ暗だというのに。 夏を厭う理由はないものの、梅雨のじっとりとした暑さは好きじゃない。 すぐに汗が噴き出してきて、けれども立ち止まらず走った。 シャワーを浴びなければ彼女に会えもしない俺としては、一刻も早く帰りたい。 彼女が、待ってる。
「来たっスよー」
一分ほど前に送ったメールの文面とまったく同じ台詞を、家から出てきた彼女に言った。 すると「知ってる」と小さく笑うので、俺は疲れが吹き飛ぶような気がした。 次いで彼女が口元に当てた指先に首を傾げる。
「行こう、早く」 「…どうかしたんスか?夜出掛けるのなんて普通でしょ?」 「男の子と行くとは、言ってないもの」
ひそひそとどこか楽しそうに言う彼女に、もう一度汗がにじんできそうな気がした。 嬉しいような恥ずかしいような、とにかく顔が熱い。 今夜も暑いっスね、なんて意味なく手で顔を仰いだりしてみても、全然涼しくならなかった。 と、不意にふらりと行く先を見失ったかのように彼女がよろける。 思わず肩を支えて、言った。
「調子、良くないんスか?」 「…あんまり」 「背中貸すっスよ」 「あれは恥ずかしいから、帰りにお願い」
そう言われてしまうと、俺は彼女に逆らえない。 でも、たまに頼ってもらえるだけで十分だ。 ゆっくりと学校へ歩みを進め、近付くにつれて俺が帰り道として走った所を二人でさかのぼる。 彼女がわざわざ学校まで行くのは、他の場所より月が近く感じられるからだと聞いた。 特に彼女は屋上に憧れていたらしく、俺が友人と勝手に作った合鍵のことを話すと珍しく目を輝かせたのだった。 それ以来、しばしば彼女と屋上への道を歩いている。
「黄瀬、今日もバスケしてきたの」 「そっスよ。先輩が厳しくて困るっス」 「可愛がられているなら、結構じゃない」 「いやー、どうだか…それに、暑くてバテるんスよ」 「だから髪が濡れているのね、黄瀬は」
彼女の指先が間近に俺を差して、少しどきっとした。 髪に指を差し込んでみると、確かにわずか湿っている。 夏場だし勝手に乾くだろうと、最近は適当にしているのを見抜かれていたらしい。 俺のびっくりした様子が可笑しいのか、先を歩き始めた彼女の口元には笑みが浮かんでいる。
「黄瀬をいじめたくなる先輩の気持ち、なんだか分かる気がする」 「ええ?…って、やっぱりいじられてるんスか、俺」 「ふふ」
本当に軽やかに、彼女が微笑む。 夜道を歩くうちに月はだんだんと光を射してきて、それが彼女を助けているのかもしれない。 随分と体調が良くなって、それでいて上機嫌になってきたようだ。 そうこうしているうちに学校が見えてきて、校舎の裏からこっそり忍び込んだ。 最初はおっかなびっくりだったのに、回数を重ねた今ではお手のもの、という感じである。
「黄瀬、鍵!」 「はいはい」
扉の前で小さく声を弾ませる姿は、素直で微笑ましい。 重く錆び付いた鉄扉を開くと、彼女は駆け出した。 一番よく月の見える場所に立ち、柵に手を置き、深く深く呼吸する。 そんな彼女は空気以外の何かを目一杯、その薄く白い肌に吸収しているのだろう。 俺が隣まで追いついたときには、もう目を閉じていた。 風はないのに、月光にさらされて淡い光を帯びた髪先は常にふわりふわりと揺れている。 横顔に見る長い睫毛と、静かな呼吸は美しかった。 じっと眺めていると、ひどく落ち着く。 だから、彼女が再びぱっちりと目を開くときは決まって慌てて視線を逸らす。 もう今更、無駄だとは思うけれど。
「はい、終わり」 「あれ。いつもより短くないっスか?」 「いいの、大丈夫。今日は満月だから、これで十分よ」 「へえ」 「それに、帰りは黄瀬がおぶってくれるし?」
少し控えめに、尋ねるように言われたのにうなずき返した。 これがないと、俺は本当にただの鍵係になってしまう。 だからせめて、彼女を背中に乗せてゆっくり帰路を歩くのが、俺が彼女に付き添う理由なのだ。
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「黄瀬の背中の上は、私の視線よりもずっと高いから。月が近くて気持ちいいのよ」 「でも屋上には敵わないっス」 「そうだけど。ゆっくり歩いてね、ゆっくり」
学校を抜け出したあたりで彼女をおぶった。 背中の上の彼女がじっと大人しいので、きっと目を閉じているのだろう。 よいしょ、なんてわざとらしい声で抱える位置を直し、また元来た道を歩いた。 月は高い位置にある。 緩やかに見上げると、彼女と頭がこつんとぶつかった。
「黄瀬、ありがとう」 「え」 「明日もきっと、朝練なんでしょう?なのに付き合ってくれて」 「あー、大丈夫っスよ。授業で寝てるんで!」 「それは駄目」 「…そっスよねー」
へら、と情けない笑みを乗せて返すと彼女が小さく揺れた。 笑っている。 嬉しくなって、けれど歩調が速くならないよう、今の時間を大切にしたくてゆっくり歩いた。 本当に、俺は彼女のために何でもしたい。 眠くたって疲れてたって、へっちゃらだ。 いつだって彼女の元へ駆けていきたい。
「…ねえ、黄瀬」 「なんスかー」 「私の家の女性はね、みんな同じ言葉でプロポーズされるのよ」 「…月が綺麗ですね、とか?」 「惜しい。月の下のあなたが綺麗ですね、って言うの」 「勉強になったっス」
今の言葉を聞かせてくれた彼女は、どんな考えを持って教えてくれたのだろうか。 彼女に見惚れるだけでなく、いつかその凛とした瞳を見つめてそう言える日がくるように、今は、歩く、歩く。 月下美人は明日も明後日も美しく笑うだろう。
20120606 あなたといると月が綺麗ですね |
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