この街、レベイユの朝はよく冷える。
指先の感覚なんて消え失せた手のひらで、木箱を掴んで持ち上げては運んでいく。
色とりどりの花たちと、その命を繋ぐたっぷりの水と、荷は見てくれよりも相当重い。
はっきり言って力仕事の部類だ。
この冷気の中では木箱のささくれに限らず、植物の枝や蔓だって油断すれば怪我の元になる。
また一つ、うっかり棘で突いた指先からつうと流れ出た赤い血にゆっくり息を吐いた。
花売りと言えば華やかな印象を持たれるかもしれないが、私は店をどこかに置くわけでもなく露店で細々と商売をしている。
私の仕事はこの街の市民の中でも随分と下層の方だ。


「おやぁ?大丈夫ですカ?」

「ブレイクさん。こんにちは」

「はい、こんにちは」


荷物をそのままに指先を見つめていた私に声が掛かり、再び木箱を持ち上げてから声の主へ視線を向ける。
まだ朝早く、人気もそれほどない路地に彼は立っていた。
あの印象的な足音が耳に入らなかったのは物思いに耽っていたせいだろうか。
所定の位置に箱を移動させる作業を再開させる。
しかし、彼にとんとんと肩を叩かれて手を止めるしかなかった。


「怪我、ほっとくと良くないですヨ。仕事熱心なのはいいことですけどネ」

「しょっちゅうなので、つい」

「それはそれは。いけない人ですネェ」


どこから取り出したのか、包帯のように細長く白い布を手にブレイクさんはにんまり笑った。
手を出してください、と声にはしないままその赤い片目に言われた気がして、戸惑いながらも素直に従った。
くるくるとあっという間に巻き付けられたそれは綺麗に留められて、ほどけることもなく私の肌に馴染んでいる。
軽く指を曲げたり伸ばしたりしてみても、違和感がない。
その手際の良さは魔法のようだ。


「…ありがとうございます」

「いえいえ、大したことはしてませんヨー」


魔法みたい、その旨を伝えればまたいつかのように「自分はただの道化だ」と笑われてしまうだろうか。
確かに浮かべられる笑みは道化師のように不変であり揺るぎない。
しかしそれを嫌だとも思わない。
彼は取り繕うのがとても上手で、その擬態が最早彼の在りようとして確立されている。
ならば、そこに疑問を持ち込むのは無粋でしかないだろう。
私の目の前に居るのは、私の知るブレイクさんだ。


「あの、お話は作業をしながらでもいいですか?」

「構いませんヨ。毎回そうなんですから、いちいち確認をしなくてもいいのに」


僅かに困ったような呆れたような笑い方をする彼に、私も苦笑いを返す。
彼は数少ないお得意様なのだ。
定期的あるいは不定期とも呼べる曖昧な間隔で、この薄汚い路地を訪れてはささやかな花束を買っていく。
わざわざ私の店でなくとも、より豪勢で華やかな、彼に似合う花は他でも多く売られていると思う。
それでも、彼は買い物のついでとして私と交流をしてくれる。
子供ではないのだから何故、は繰り返さない。
そんなのはやはり無粋というものだ。


「君は律儀な人なんですネ」

「厄介ですか?」

「いえ、少し友人に似ています」


緩やかに視線を落とし、穏やかに呟いたブレイクさんをまじまじと見てしまった。
きっと私のまばたきは驚くほど回数が多かったに違いない。
優しい表情。
また一つ、私の知らない彼の一面はすとんと心に落ち着いて、自分をじんわり嬉しくさせるのだ。
それを悟られてはいけないと、私は言葉を探す。


「もしかして、今日の花はそのご友人の方に贈り物ですか?」

「…いや、それはないですネ。贈るところを想像して後悔しました」

「何ですか、それ」


途端に苦々しい顔をするものだから、それが可笑しくてつい笑ってしまう。
ということは、彼の友人とは男性であるのかもしれない。
女の私を見ての言葉だったから、女性かとも思ったのだが。
何にせよ、余程気心が知れている仲であることは窺える。
それはなんて嬉しいことか。
羨ましい、なんて思いが湧かないくらい穏やかな心持ちで彼のことを思う。


「さて、今日の分はこれでほとんどです。どの花に致しますか?」


箱から出した花々をそれなりに立て置き、彼の視線を追う。
いつもなら本職である私の助言も必要とせず、ひょいと数本を摘み上げ束ねてほしいと差し出すのがブレイクさんだった。
そう、いつもなら。
今日の彼はじっと指先を顎に置いて、まるで考え込むようにしている。
目線は私の左脇のオンシジウムにぴたりと合わせられて、動く様子もない。
オンシジウムとは小さな黄色の蝶が寄り集まったような可愛らしいラン科の花で、近い属にオドントグロッサムなどがある。
普段の彼のチョイスと比べれば、いささか似つかわしくない。
そう、若い女の子が好むような花なのである。


「ふむ、決めました」

「オンシジウムがお気に召しましたか?なら黄色に合わせて他の花を寄せるとしましょう」


何か思うところがあるのかと、側の白い花へ視線をやった私をブレイクさんは手を上げて制した。
彼の常と違う空気を感じ取って大人しく従ったものの、初めての出来事ばかりで内心私は戸惑う。
ブレイクさんは結構な間、この店へ通ってくれている。
少なくとも、私にとってそれは決して短い期間ではない。
束の間の逢瀬のように、彼との日々を楽しんでいる自分が確かに存在する。
揺れる思考は、彼が細めた瞳によりますます朧気になった。


「私に、この店の花を全て買い取らせてください。予備の在庫も全部です」


目を見開くばかりの私に「もちろん代金は払いますヨ」なんて声が掛かる。
違うのだ。
ブレイクさんの服装はいつも不思議な構造をしていながら、身分相応の装飾と気品を持っている。
少し考えてみれば、彼がどこか高名な貴族のお家柄か、またその関係者であることは容易に想像がついてしまうはずなのだ。
それを避けていたのは、自覚をしてしまえばもう今のようには話せないし、彼との間にある溝に自分は途方に暮れるしかなくなる、と。
何より自身が理解していたからだった。
私の勝手な思惑を知っていて指摘をしてくれていなかったのだとしたら、ブレイクさんは優しいにも程がある。


「あの、ブレイクさんは」

「私ですカ。こんな身なりでも実はレインズワース家の使用人をやっておりまして、…言おうとは思っていたんですヨ」


四大公爵家の。
そこで私の思考は止まってしまった。
今までの自分の行動全てが恐れ多く、やはり途方に暮れて視線だけを送ると、ブレイクさんはほんの少し悲しみを混ぜ込んだ笑みを浮かべていた。
どうして貴方がそんな顔をするのですか。


「…私は随分と昔から名前さんのことを知っていましたヨ」

「え?」

「貴女の家は没落し、今の苦境を強いられている。違いますカ?」


歩み寄った彼が身をかがめて、二人の距離は今までで一番近くなる。
私は顔を上げることが出来ずにいて、頭上の彼が何かいろいろな思いを乗せた吐息をこぼしたのだけを感じ取る。


「何年も前に、お嬢様について参加した社交界で貴女の姿をお見かけしましたヨ。貴女は、昔と少しも変わらない」

「それでも、たとえ伯爵家の出自だとしても…今の私はただの平民です」

「名前さん。難しく考えるのは止めにしませんカ」

「私にはそんなこと、」

「できますヨ。私がお手伝いします」


ほら、やはり魔法のようだ。
涙を堪えて必死の思いで彼の姿を振り仰いだのに、そんなに優しい声と表情をしてくれるから。
もう今にも手を伸ばしてしまいそうで、自分が怖くなる。


「私がこの花たちを買い占めれば仕事を終えたあなたとデートができる。ありがちでも、素敵な話じゃありませんカ?」

「…無理です」

「無理なんて言葉はこの際捨ててしまいましょう。貴女と居る上では妨げでしかないですしネ」


そんな無茶苦茶な、と言いかけた私より、今さっき何でもないように笑ってみせた彼の言葉の方がずっと強いのだと、分かっている。
発言力や権力は一切関係ない。
ただ彼の存在がそうさせている。


「オンシジウムの花言葉、ご存知ですカ?」

「…『一緒に踊って』」

「そう。私にお付き合い頂けますか?名前嬢」


恭しく腰を折ってみせるブレイクさんにやめてください、と私はその肩に触れる。
顔を上げた彼はふ、と軽く息を吐いた。


「ようやく笑ってくれた。私に奪われてください、名前さん」


私の傷付いた指先を気遣うように持ち上げた彼は、私に一番の言葉をくれた。


20120104
その可愛らしい花の形から付いた別名は「ダンシングバレリーナ」
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