リーオは何をするか分からない、私は不意にそう思うことが昔からよくあった。
情緒が不安定なわけでも人格が破綻しているわけでもない。
しかし彼の思考は、例えるならその無造作な前髪と眼鏡の奥にある素顔のように、見知ることも読み取ることもできないものだった。
ただ、今。
リーオは短く髪を綺麗に整え、その表情を隠すことなく私に向き合っているというのに、得体を知れないと思うことは増えた。
彼の思考は危うさも併せ持って、私を不安にさせる。
リーオ、今何を考えているの。
この瞬間にだってそれを言いたくて、そして言えずにいる。


「リーオ、大丈夫」

「…うん」


ベッドで力を抜いて横たわっている彼は、先ほどチェインと契約を交わしてきたと話していた。
私にはよく分かりもしない世界だ。
チェイン。アヴィス。パンドラ。バスカヴィル。ナイトレイ。ベザリウス。
リーオやヴィンセントという人から伝え聞いた多少の知識はあれど、やはりそれらは知らない言葉のように私の耳に入ってくる。
興味がないのだ。
そんな途方もない世界の中で急に生きることを決めたリーオの肩の荷はどれだけ重いのだろう。
考えると、気分が重くなった。
心配の気持ちも、湧く。
私は無知で、側に居るリーオの話し相手か世話役くらいのことしかできない。


「ジャバウォック、だっけ。…契約はどんな感じだったの?」

「ふ、」

「リーオ?」

「無理して話さなくていいよ、名前。君には縁のないことだと思うし」


ごろりと寝返りを打って、こちらへ向いたリーオは微笑んでいた。
その口からくすくすと声が漏れる。
以前より鋭さを増した瞳とシーツに散る髪が、なんだか見てはいけないもののようで、わずか視線を伏せる。
それすら見抜かれたのか、リーオは少しだけ眉根を寄せて、苦い笑い方をする。


「名前。…ちょっとこっちへ来てくれないかな」


やはり身を横たえたまま、小さく首を傾げては両手を広げて私を待つリーオの姿に、どことなく不安を覚える。
特に断る理由もないし、今はリーオの調子も優れない。
私が素直に近寄っていって、ベッドの脇に膝をつけば彼は心底嬉しそうに笑った。


「何か欲しいもの、ある?水とか…」

「いや、何も。もう少し、近寄って」

「こう?…わっ」


リーオの伸ばされた両手に引き寄せられる。
それだけならまだ良かった。
驚いたのは、その手のひらが探るように服の隙間から入り込んで、素肌をするりと撫でたから。


「リー、オ…」

「怖がらなくても何もしないよ」

「嘘、でしょ」


私の言葉に、リーオが表情と動きをぴたりと止める。
じっと私の顔を見返してきたあとで「そうだね、嘘かもしれない」と感情を消した横顔で小さく呟いた。
上半身を起こした彼は私の首にすがるような形で身を寄せている。
何をされるやら、羞恥や不安でいっぱいの私へリーオが密やかに声を落とす。


「しばらく動かないでね、名前」


魔法のように、という訳ではないが確かに抑止力と威圧感のある言葉に、私は身体を固くした。
リーオの手のひらは依然として私の背中あたりの肌を撫でている。
と、軽い圧迫感が素肌に加わった。
爪を立てられている。


「リーオ」

「なに?」

「何、するの」

「うん、少し」


くっ、と込められた力がじりじりと鋭さを増してくる。
軽い圧迫から小さな痛みへ、だんだんと変わっていくそれに私は身をよじりそうになる。
けれどもリーオのもう一方の手のひらは優しく駄目だよ、と言い聞かすように私の身体を支えていた。


「痛い、リーオ」

「うん」

「痛い、って…」


ガリ、と遂には引っ掻かれる感触にまで至り、私は小さく唸った。
数カ所爪の跡を残すと、リーオはまたそろそろと手のひらを移動させて、再び爪を立てる。
今度はさっきよりも強めに。


「い、た…」


今のは血が出たんじゃないだろうか。
ずきずきと痛む感覚が背中に無数にある。
これに何の意味があるのか、私にはいくら考えても分からない。
ただリーオがなんだか懸命に私の姿を確かめるように、懇願するように私に爪を立てるから。
彼の深い色をした空気に飲まれないよう、必死で平常心を保っているだけ。
私はいつの間にか無意識にリーオの肩を掴んでいて、そこに手を置いては痛みを堪えた。


「い、たい」

「うん、痛いと思う」

「じゃあなんで…」

「きっと僕は不安なんだ」


は、と軽く息を吐いて閉じていた目を開けば、思っていた以上に苦しそうな顔でリーオが私を見つめていた。
その指先が目尻を掬って、気付く。
涙が出るくらいに、私は我慢をしていたらしい。
リーオは私の頭を撫でて、驚くほど優しいキスをした。
ひどいことをしたり、急に優しくしたり、彼の考えが分からない。
リーオの腕の中で私は幸福と混乱の最中にあった。


「ごめん、名前。後でヴィンセントに傷に効く薬をもらってくるから」

「それは、いいんだけど」

「やっぱり痛い?ごめん…」

「違うの、リーオ」


その深い瞳と目が合う。
あまり見つめていると引き込まれそうだ、なんて思いながらどうしても言葉にならない。
リーオ、今何を考えているの。
それだけを言ってしまえば、答えを聞いてしまえば、私はリーオの近くにいる理由を得られるのに。
不安になることもなくなるはずなのに。
私の口は息を吸って吐くことしかできなかった。


「大丈夫だよ、名前」


私の様子を訝しむでもなく、彼が優しく髪をかき混ぜる。
そのときに悟ってしまった。
リーオは私の言いたいことを分かっている訳じゃない。
ただ漠然と不安そうな私を慰めているだけだ。
見開いた瞳には、笑顔のリーオの姿が映り込んでいることだろう。
こんなに近くにいるのに、私たちは分かり合えていない。
その事実にとても悲しい気持ちになった。


「安心して、僕はちゃんと名前のことが好きだよ。好きだからこんなこともしてしまうけれど、ずっと側にいてほしいんだ」

「それじゃ理由になってない、よ…」

「え…?ごめん、よく聞こえなかった。名前?」


俯いてこぼした声は彼に届かなかったらしい。
ぼんやりと感じてはいた。
以前よりも、リーオの存在をずっと遠くに感じること。
時々、彼が全くの別人に見えること。
いくら優しい笑顔をしていても、昔のような穏やかな笑みは見せてくれないということ。
私は彼が好きなのに。
好きだから側にいるのに。
これじゃあ意味がない。
私が真っ向からリーオと向き合って、今の彼を否定しなければ。
けれど、そんなことは怖くて出来そうにもないのだ。


「ねえ、リーオ」

「うん?」

「…どこにも行かないでね」

「うん。ずっと、僕はここに居るよ」


いつまでが期限なのか分からない約束。
ただ悲しくて視線を落とす私をリーオは慰める。
そのリーオだって、ちゃんと私が知っている彼だ。
私が好きでたまらないリーオ。
なのに今の彼のことは何一つ、分からない。
未だずきずきと背中に走る痛みは今のリーオにとって何を意味するのだろうか。
その傷跡を穏やかな手つきで撫でる彼は、これで安寧を得たのだろうか。
柔らかく弧を作るその唇は、やはり見てはいけないもののようだった。
なのに、それは不意に近付いて距離をなくし、優しく私に触れてくる。
泣きそうだ。
そうなったらまた、リーオは私を慰めるだろうか。
ねえ、私が欲しいものはそれじゃないの。


20111231
(気付いて、気付いて)
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