ただうつらうつらと、夢見るように本の世界に浸っていたい。 僕の願いは単純で、それでいて静謐だ。 ぱちり、と目を開いた時、自分は相変わらずいつもの場所で本に囲まれていて、穏やかな日差しが窓辺から差し込んでいた。 少しだけうたた寝していたみたいだ。 ふと、書庫の入口に人が立つ。 「リーオ、洗濯物を干すのを手伝ってくれるかしら」 「…はい、ミセス・フィン」 軽く目元をこすり、言いつけられたとおりに洗濯物の詰まった籠を手に庭へ立った。 ここ、フィアナの家での暮らしは穏やかで変わりない。 周りは僕より年の小さい子が圧倒的に多くて、こうしてたまに手伝いを頼まれる。 母と暮らしていた頃よりはずっと少ない仕事をこなし、賑やかな食卓でご飯を食べて、一人きりで本を読み、雑音から耳を塞ぐようにして眠る。 その暮らしは楽だ。何も考えなくていいから。 ぱん、とシーツの皺を伸ばせば花のような香りがふわりとした。 風に揺られる白につられてか、近くを子どもたちがはしゃぎながら駆けていく。 「(…今にも転びそうだなぁ)」 そう思った矢先、小さな姿が一つ、足をもつれさせて地面に倒れ込んだ。 その子は泣き出して、また大人が駆け寄ってくる。 僕は手助けをしないし、できるとも思わない。 前髪のことを気にして話し掛けてくる子どもはいっぱい居た。 反射的に拒絶を続けていたら、誰も寄らなくなったけど。 子どもが嫌い、ということはない。 ただ接し方が分からなくて、そうして少しずつ苦手になっていく。 何をしてあげれば喜ぶのか、考えても実行ができなければ意味がない。 そう思っていた。 さわさわと風が吹く中、子どもたちの遊びはしゃぐ声は絶えない。 そこから離れるように、空の籠を手に家に戻った。 「(あの子たちは、自分の身に起きた悲劇がなかったかのように明るい)」 それはこの家の穏やかな空気が成せることなのか。 ただ単純に全てを忘れるには、自分は年を重ねすぎたのか。 考えてみても見当はつかなかった。 籠をどこへ戻せばいいのか、迷った末に洗面所の方へ向かう。 道すがら、通りかかった一部屋の前で無意識に足を止めていた。 そこは、僕の聖域。 子ども向けの本がないはずのその場所で、明らかに僕より年の低い女の子が本を取ろうと精一杯背伸びをしていた。 「(…いやだなぁ)」 最初に浮かんだのは、素直な気持ちだった。 確かに最近、いくつか本が抜けていることはあった。 大人の手による仕業だと思っていたけれど、違ったらしい。 それでも僕が今まで気付かなかったということは、あの子がここの空いている時を探して、ひっそりと訪れていたということになる。 人目を避けるように、ここにずっと居座る僕を気遣って。 果たして本当に気を回していたのか、僕が怖かったのか。 分からないけれど、随分と殊勝なその態度は好ましくあったし、いじらしいと思ってしまった。 声を掛けようと口を開きかけて、やめる。 僕はあの子の名前すら知らない。 知らない、けれど。 子供への接し方なんて、分からない。 けれど、彼女があの本を取れなくて困っていて、誰かの助けを必要としていることくらいは、僕にも分かる。 その誰かに、僕がなってもいいだろうか。 「ねえ」 必死な後ろ姿は僕が歩み寄るのにも気付かないで、その小さな肩を少し揺らした。 籠を片手に立っている僕を見て、仕事を終えたのを悟ったらしい。 気まずそうに目を伏せてしまった。 その表情に怯えた感じはなくて、どちらかといえば申し訳なさが滲み出ている。 そのことに正直安堵した。 逃げられることも覚悟していたのに。 「見てたんだけど、これが読みたいのかな」 とん、と背表紙の一つを軽く指先でなぞる。 見てた、のところで顔を真っ赤にしてしまった彼女は、続けてこくこくと何度も頷いた。 自分の口調は相変わらずぶっきらぼうだったけれど、思わず口元が緩む。 素直な子だ。 本を一冊抜き取って、その手に渡す。 やはり彼女には少し難しそうだ。 「ほら」 「あ、う」 「?」 その口からひゅうと息の漏れる音がした。 よく見てみると、彼女の細い喉には不釣り合いな布がぐるぐると巻かれている。 喉に怪我をしていて、上手く喋れないのだろうか。 ここに居る子どもたちはいろんな事情を抱えている。 有り得なくはない。 そっと腰を落とすと、女の子は内緒話のように口を寄せてきた。 なんだか甘い香りがする。 こんなに子どもと近付いたのは初めてかもしれない。 ゆっくりと、掠れた声が言葉を紡いだ。 「あ、の…ありがとう。リー、オ」 「別にいいよ。というか、僕の名前を知ってるんだね」 「うん、」 声はぷつりと途切れるものの、聞き取れないわけじゃない。 こうして一人の女の子の言葉に耳を傾けているのが自分らしくなくて、少しおかしかった。 だからか、疑問を胸に話を続けてみる。 「その本は、君には難しいんじゃないかな」 「が、頑張って読むの。時間が掛かっても勉強、する。お父さんやお母さんが好き…だった本は、ここにしかなくて。ごめんなさい…」 「ああ、えっと。謝らなくてもいいよ」 なるほど、合点が行った。 彼女の手にある聖騎士物語は子どもにも読みやすいけれど、大人まで幅広く人気を持っている。 絵本や詩集が大半であるあちらの書庫にはあまり置いてないだろう。 そういえば、小さく喋っては頭を下げてしまう彼女は、他の子と違ってどこか悲しみを忘れられていないようだった。 その首へ軽く手をやろうとすると、後ずさりした彼女はいやいやと首を振る。 僕と同じ。 触れられてほしくない傷をこの子は持っている。 だから代わりに、その頭を撫でた。 誰かを撫でるなんてしたことがないから、優しくできていたかは分からないけれど。 驚いた瞳が大きく見開かれて、僕の姿を映している。 「怒ってないから、好きなだけ本を持って行っていいよ。僕が居る時に来れば、取ってあげられるし」 「…来てもいいの?」 「早く出て行って、なんて流石に僕も言わない。いいよ、いつ来たって」 どこか暗かった彼女の表情がぱっと明るくなった。 良かった。 僕でも誰かを喜ばせることができるんだ。 それを知った今、まずは彼女の名前を教えてもらわないと。 もう一度しゃがみこんで、そのことを伝えれば、いささか気恥ずかしそうな声でひそひそと囁かれる。 「うん、いい名前だ」 素直に告げると、心から嬉しそうな笑顔を向けられる。 まばらな前髪から覗き見えるそれは、なんだか眩しかった。 すぐに受け入れるのは難しいかもしれない。 けれど、ずっと思っていたことだから。 嫌なことを忘れさせてくれる優しいこの場所。 こういう場所は、誰にとってもあるべき必要なものだと思う。 ましてや、それを人と共有できたら。 …いつか、ここで彼女と並んで本を読めたなら。 こんなに良いことはないだろう。 もしもその日が来るのなら、この部屋が持つ静寂への僕の愛情はきっと増す。 あの、しんとした美しい空気。 僕は彼女とそれを分かち合いたい。 そんな風に、思った。 ただうつらうつらと、夢見るように本の世界に浸っていたい。 僕の願いは単純で、それでいて静謐だ。 そのはず、だったんだけれど。 僕の願いが好きな女の子と主人と一緒という、少し賑やかな形で叶うのはもう少し先の話。 20111217 エリオットとリーオ和解のきっかけには聖騎士物語もあったんじゃないかな、と。 ジャンル不問の読書家リーオなら昔から制覇してるはず。 なおかつ主人と同じでエドウィン派だったら嬉しい。 |