鼓膜に落ちてくるピアノ・レッスン。
あの子は今日も熱心に練習をしているようだ。
朝に従者が丁寧に着せてくれたふんわりレースも気にせず、この邸の廊下に脚を投げ出すようにして座り込んだ。
背中と同じく頭も壁にコツンと寄せれば、音色はより鮮明になって響いた。
そうして目を閉じるのが、ここ最近で一番落ち着ける時間だった。
別に、中できちんと彼の様子を眺めながら傍聴することが許されていない訳ではない。
こうして彼の指先や乗せる思いを想像するのもなかなか楽しいから、なんとなく今まで部屋に入れないでいる。


「名前か?」

「ああ、エリオット」

「また来たのかよ」


自分がその音色に惚れ込んで聴き入っている反面、演奏をしている本人はいつも私にそっけない。
たっぷり一時間は座り込んで聴いていただろうか。
不意にピアノの音が途切れ、私が中の様子を覗き見るより早くエリオットが部屋から出てきた。
楽譜を手にしているところを見ると、本日のレッスンは終わったらしい。
残念、もう少し聴いていたかったのに。
ひらりとした衣服の裾を気にしながら立ち上がれば、目線よりほんの少し低い位置に彼の顔がある。
今はまだ私の背の方が高いけれど、いつか一気に追い越されてしまうだろう。
男の子の成長はなんだって早いものだから。


「今日の演奏も本当に素敵だった。拍手を送りたいくらい」

「別にあんなのはただの練習だ。きちんとした演奏でもない力不足のピアノで…オレはまだ上手くなれる」


褒め言葉に対しても、彼の態度はいつも通りだった。
確かに、ピアノは時折その響きを戸惑ったように途切れさせることがある。
けれど、それは未だ人から教えを受ける身として当然のことだろう。
彼はどうも頑なで、誰に似たのかと思いを巡らせてみるも、この家の人々に心当たりのある人物は居ない。
私の友人である彼はエリオットの実兄であるというのに、特に性格が似ても似つかない。


「エリオットは現状に満足してないんだね」

「ああ」

「向上心があるのはいいことね。えらいえらい」

「おい。そういう子供扱いやめろよ」


淡い色合いの髪を軽く撫でた手のひらはぱしっと振り払われてしまった。
もう慣れたことだけれど、いささか寂しい気持ちは残る。
意趣返しのつもりで、笑顔を作って言ってやった。


「13なんてまだまだ子供よ。私から見れば尚更ね」

「…そうかよ」

「そうだ、エリオット。お菓子があるんだけれど食べない?」


私の言葉に彼はさらに眉間を寄せたものの、私が取り出したものに見覚えがあるらしく、何か言いたげな表情に変わった。
彼が気にするのも最もで、これは先ほどお茶の席で頂いたものだ。
この家で用意されたものだから、エリオットも見たことがあったのだろう。


「おまえ、今日だってアーネストに呼ばれてきたんだろ。行かなくていいのかよ」

「エリオットのピアノを聴いてくると言えば彼は笑って許してくれたけど?」

「なら、いいが」


急に勢いをなくしたエリオットは、何か思い悩むように声を低めた。
なんとなく察した私は言葉で追い詰めたりせず、彼が答えを出すまで発言を待つ。
不意に決意のある瞳が私を見据える。
それは兄や姉とお揃いの、綺麗な青色だった。


「名前、まだ時間はあるか」

「え?」

「暇してるなら少し聴いていけよ」


予想だにしなかった言葉に驚いていると、エリオットが私の手を軽く引く。
その結果、なんとなくの気持ちで避けていた一室にあっさり足を踏み入れてしまった。
落ち着かない様子で部屋の中を見回す私に「別に珍しいものはないぞ」とエリオットが小さく笑った。
椅子を持ってきて、ピアノの前に座る彼の傍らに腰掛ける。
部屋の外からの想像よりも細長い指が鍵盤に置かれて、一度彼が振り返る。


「なんだよ、そんなまじまじと見て」

「綺麗な手だなぁと思って」

「…うるさい。黙って聴いてろ」


尋ねてきたのはエリオットの方だというのに、どうも理不尽で少し笑ってしまった。
それから一拍置いて、指先がゆっくり滑り出す。
やや単調な、けれども何度も繰り返し響く主旋律が綺麗な曲だった。
まっすぐで率直で、自分の気持ちに素直に生きている彼によく似合っている。
ふいに音色がぷつりと途切れ、エリオットは演奏を止めてしまった。
疑問を胸にじっと見つめると、困ったように薄く笑ったエリオットが言う。


「ここまでしか出来てないんだよ」

「ここまで、ってことは」

「最近は自分でも曲を作ってる。今のはまだ未完成のやつだ」


エリオットが作曲したもの。
どうりで彼らしい曲だと感じたはずだ。
鍵盤に載せたままの手のひらで、エリオットはいくつかの音を探るように弾いた。
多少ピアノを習っているとはいえ、彼ほどの知識も技量も持たない私はただそれを見守ることしかできない。
作りかけの曲を聴かせてくれた彼の真意がわからなかった。
わずかな音色すら弾くのをやめて、エリオットが私へ向き直る。


「おまえとアーネストは古くからの友人だろ」

「うん?」

「ナイトレイとおまえの家と、両家は付き合いも長い」

「…何が言いたいの?」

「おまえらが、その、仲がいいのは分かってるんだ。でもオレは名前にこの曲を贈ろうと思ってる」


再び目を逸らせないような力強い視線と目が合って、私は意味なくまばたきを繰り返した。
その言葉の含む意味を探り当てようと言葉を選ぶ。


「それは私がエリオットのピアノを気に入っているから?」

「それもある。が、告白みたいなもんだ」


さらっと言った割には存外気恥ずかしかったらしく、言葉を返せない私からエリオットは視線を外す。
伏せた瞳は不安の色を帯びてさまよう。
本人には悪いけれど、その様子が少し可愛く思えてしまった。
エリオットは背伸びをしない等身大のままで私と向き合ってくれているのだと実感する。


「名前の言う通り、オレはまだ子供だ。年下だから至らない点もある…と思う。だけどオレはおまえが好きだから、だな」


照れを隠しきれない表情で彼が言う。
代わりに笑みを抑えきれない私は頬を緩めたまま、緊張した様子のエリオットの髪をふわふわ撫でた。
しかめっ面でやめろと言われてしまったけれど。


「…何も言わないのかよ」

「わかってないなぁ、エリオット」

「はぁ?」

「エリオットの言う通り、私とアーネストは友人。彼を置いてここにピアノを聴きにくる時点で伝わってると思ったのに」


やっぱり言葉にしないと駄目だね、と言うとようやく理解したらしい。
私の手のひらの下、短い前髪では隠しきれないくらい顔を赤くしたエリオットがいた。
わずかに震える手が私の手に重なる。


「私もエリオットが好きだよ。心配しなくても他の人とは何もないのに」

「…誰がおまえ相手に心配なんか」

「しなかった?」

「……、したけど」


どうにも敵わないといった顔をするので、意地悪はやめて軽く笑うに留めた。
それでも不服そうな表情を見せる彼は、どうしたら機嫌を直してくれるだろうか。


20120315
Klavierkonzert(独):ピアノコンチェルト
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