大丈夫だ、って私の背よりずっと高い位置から落ちてくる声と撫でてくれる手のひらが大好きだった。 エリオットと喧嘩したときもヴィンセントに怖い話をされたときも変わらなかったギルの声。 結局エリオットとは仲直りできたし、ギルと話していたら怖い話を忘れていた。 いつだって無条件にすべてを預けることを許してくれた人。 彼は私にとって親のような兄のような存在で、側にいたいと思うよりは側にいるのが当たり前な人だった。 それは離れてしまった今でも。 「ギル、お帰りなさい!」 私が駆け寄ると、ギルは少し驚いた表情をしたものの疑問は二の次でしっかり抱き留めてくれた。 なんでここに居るんだ、なんて野暮なことは訊かない。 しばらくぶりのギルの体温と煙草の香りに私は嬉しくてたまらなくなった。 「久しいな、名前。元気にしてたか?」 「うん、ギルが久しぶりに帰ってくるって聞いて、このお家にお邪魔してたの。そうしたらね」 「名前!」 私の背中に掛かった鋭い声音にびくっと肩を揺らしたのは彼も同じだったようだ。 ギルに引っ付いたままちらりと後ろを見やれば、憤慨した様子のエリオットがじっとりとこちらを睨んでいた。 頑固で一本気、その言葉を体現したようなエリオットと不真面目な私はたびたび衝突する。 それはギルを待っている間も例外ではなくて。 「エリオット…」 「ギルバート、言いたいことは尽きないが今日はおまえじゃなくてそいつに用がある。大人しくこっちに渡せ」 「…なんでエリオットは怒ってるんだ?名前」 「私はギルに会いにきたのに、さっきからこの調子で」 「おまえな、そういう口を叩くのは貴族として恥ずかしくない成績を出してからにしろ!」 「成績?」 ぽかんとした様子のギルから少しだけ目を逸らした。 自分ではそんなに悪くないと思っているのだけれど、何にせよ試験では常に上位にあるエリオットの基準だから当てにならない。 最近では学校で顔を合わせてもこの話題ばかりだ。 つかつかと歩み寄ってきたエリオットが私の腕を掴む。 「また順位が落ちてただろう。いい加減に勉強しないとまずいだろうが」 「真ん中より上だもの、そんなに悪くない」 「その程度で満足するな!おまえはもう少し貴族として自覚をだな…」 「じゃあギルに教えてもらうからいい!」 「現役学生でもなく家にも帰らずふらふら放浪してる輩が当てになるか!」 私とエリオットの言い争いにすっかり気圧されて、口を挟む余地をなくしたギルは「落ち着け」とか「二人とも言い過ぎだ」とか曖昧に私たちをなだめようとしている。 とにかく場を収めたい一心のギルに、不意にエリオットが私から彼へ不機嫌な視線を移した。 あ、矛先変わった。 「おまえに用はないって言っただろうが!」 「だがな、エリオット…」 「こいつもこいつだ、おまえを待つためだけに来やがって」 「え、私?」 「そうだ!人が話しかけてるのにずーっと上の空でそわそわと鬱陶しいことこの上ない。ギルバートもこいつの面倒をしっかりと…」 「もしかして、私が相手にしないから寂しかった?」 思わず口をついて出た言葉にエリオットがそれまで忙しなく動かしていた口を止めた。 そんなわけないと否定の怒鳴り声が飛んでくると思っていたのに、こちらをゆっくり振り返った彼の顔はうっすら赤くなっていた。 ギルもそれに驚いた様子を隠せなかったらしい。 私の方を向いて見えなくなったらしいエリオットを追いかけて覗き込むようにしたギルは案の定怒られていたけれど。 「なんなんだ!離れろ!」 「す、すまない…しかしエリオットがそんな顔をするのも珍しいと思って」 「ごめんね、エリオット。今度からはギルが居なくても遊びに来るから」 「来なくていい!」 どうやら余計なことを言ってしまったらしい。 私にもギルにも苛立ちと若干の羞恥を隠せない様子のエリオットは舌打ちを残して屋敷内に入って行ってしまった。 二人でそれを見送ったあと、思わず顔を見合わせてしまう。 私は笑ったけれど、ギルは申し訳なさそうな表情をしていた。 「なんだか…エリオットに悪いことをしたみたいだな」 「大丈夫だよ。ギルが帰ってきて、ただでさえ少ない素直さがさらに半減してるだけだから」 「それはそれで悲しい気もするが…」 「きっとエリオットなりの出迎えなんだよ。文句は言いながらも、何だかんだ毎回出てきてくれるでしょう?」 私の言葉にわずか目を瞬かせて、「そうだといいな」とギルが小さく笑った。 中に入るか、と彼が言ってくれる。 そういえば再会の嬉しさとエリオットの勢いに忘れていたけれど、今の今まで玄関で立ち話だった。 廊下をギルについて歩きながら、後でエリオットに詫びを入れなくてはと思案する。 そんな私を見下ろして、ギルが口を開く。 「さっきも話題に出たが、成績…良くないのか?」 「う…だから真ん中より上だって」 「どのくらい上なんだ」 「真ん中より、少し上」 「そうか…」 「なに、ギルまで私にお説教するの?」 恨めしくなって軽く笑いながら視線を送ると、いやに真剣味のある表情があってどきりとした。 時々遠くを見るような寂しい目をすることは知っていたけれど、今のはそれとまた違う。 私が見ているのに気付くと途端にギルはふっと金色の瞳を緩ませて、頭を撫でてくれた。 「いや、なんだ。おまえの話を聞いていて楽しいんだ。学校とかエリオットのこととか、知らないことばかりで」 「ギル…?」 「オレには少し、遠い世界だからだろうな」 視線を外して落とされた言葉に、私の足は止まってしまう。 私がその黒い外套を掴んでいたせいで、ギルもつられて立ち止まった。 振り返った彼の表情がしまったと言いたげに見えたのは、多分私が泣きそうな顔をしていたから。 気遣わしげに彼が視線を合わせるために身を屈めてくれた。 「名前」 「そんなことない」 「…ああ」 「そんなこと、ないんだから…」 だんだんと小さく弱く、消えてしまいそうになる声。 こんなにも悲しいのは、確かに彼が自分には手の届かない遠い世界に身を置いていると自覚しているからだ。 それが分からないほど子供ではない。 彼が年を重ねたように、自分もそれなりに成長していろんなことを知った。 私が言うほど何もかもが単純で上手く行くはずがない。 けれど、握りしめていた手のひらを優しくほどいてくれる彼の指先があるから、どうしても世界は優しいと信じていたい。 「そんな顔をしないでくれ」 「だってギルが、」 「悪かったから。久しぶりに会ったんだ、オレに笑顔を見せてくれるんだろう?」 ほら、と促されるようにして上げた視線の先には少し困ったような、けれど柔らかい笑顔があって、私は胸が苦しくなった。 私の手を握る手のひらも、あやすような声音も、優しく滲む瞳の金色も、みんなみんな好きなのだ。 私にとって親のような兄のような人。 彼の隣にずっと居るためにはどうすればいいのだろう。 ひとまず無理に笑顔を形作ってみれば、そうじゃないと笑われて、大きな手のひらが頬に添えられた。 あなたがいつだって、無条件にすべてを私に預けてくれたらいいのに。 彼に慰められているような自分では、まだまだだ。 自分に不相応な望みを閉じた瞳の奥に、静かに押し込めた。 20120115 |