「何度も言ったけれど忘れちゃった?エリオット」 私の手のひらをゆるく掴み上げた彼から返ってくる言葉はなかった。 我ながらひどい言葉を吐き出している、と思う。 今こうして瞳を伏せ、わずか唇を震わせては幾度となく言葉を飲み込むエリオットが恋をしているのだと、どこの誰が見ても分かることだろう。 それに、これ以上はない激情と衝動の狭間にあるような表情で手を取られれば、いくら何でも自分がその想い人だと分かってしまうのもまた道理である。 どうしてなの。 そう問いかけたい気持ちは押さえ込んで、彼を見やる。 視線は合わないまま、長い沈黙のあとに澄んだ声が落ちた。 澄んでいて、泣きそうな響きだった。 「忘れて…ない。おまえは事ある毎に口にしてたからな」 「うん」 「幸せそうな奴らを見るといつだって言ってた。オレが聞き飽きるくらいに」 エリオットの言う通りで、私は仲睦まじい男女の一組を目にするたび口にした。 私は恋をしない、したくない、と。 隣のエリオットはいつだって怪訝そうな顔をしていた。 別に嫌な感情が湧き起こる訳ではない。 彼らは確かに人生の最高の瞬間を謳歌していて、笑顔はまぶしく、寄り添い合う姿が可愛らしいとさえ思う。 けれど。 自分がそうなりたいかと問われても私は答えられなかったことだろう。 その欲求が欠如している。 いや、そう思い込みたいだけだろうか。 「聞き飽きるくらい?」 「ああ、おまえの声の感じから口の動きまで完全に覚えてる」 「それは悪いことをしたなぁ」 この世に男女の付き合いなんて星の数という比喩にも適わないほど存在している。 それを見るたびに言い聞かすように刻みつけるように、口にしてきたのだ。 私は恋をしない、したくない。 理屈も理論もない、子供のような駄々。 けれども無駄に意思と意地はこもっている。 エリオットはよく笑った。 無茶苦茶だな、とか好きにしろよ、とか。 そんな彼が、私を一番に理解している彼がどんな思いと覚悟を持って私へ手を伸ばしたのか。 考えただけで胸が千切れそうだ。 「エリオット。私はこの手の意味を尋ねないといけないのかな、やっぱり」 「…いい。オレが言うから」 「うん、じゃあ任せるよ」 辛いだろうに。 その心はぎしぎしと痛んで、恋をしないなんて信条を馬鹿みたいに徹底している私なんかを思ってくれているのだ。 ああ、もったいない。 よりによって私を選ぶこともなかったのに。 こんなことを言えば彼は傷付くし怒るだろうから、心中で呟くに留める。 これ以上エリオットを私のせいで苦しめる必要なんてない。 優しい人。 優しいからこそ、損をしてしまう人。 それはなんて悲しい。 確かに彼は気遣って私の手を握ってくれているのに、そこがじんと痛む気がした。 「おまえが言ってることは今まで聞いてきたし、そこに揺るがない意思があるのも知ってる。オレが言ったっておまえが変わらないってことも、嫌になるくらい分かってる」 「…ごめん」 「謝るな。次謝ったら許さないからな」 エリオットの射抜くような視線に私はただ静かに口を閉じた。 不思議だ。 私が見てきた告白というものはもっと甘く穏やかなはずなのに、私とエリオットではそんなものから程遠い。 あるのは彼の強い決心と、私のつまらない言い分と、お互いに譲れない思いだけ。 「おまえのことはよく知ってる、けど…」 「うん…」 「それでもおまえが好きなんだよ。恋をしたくないなんて訳分かんないこと言うおまえがオレは好きなんだ」 「…」 「駄目なのか?おまえのそれは、絶対なのか?オレがおまえを思う余地はないのか、なあ」 次第に乗せる感情が増していく言葉は痛くて、けれど私は少し嬉しかった。 恋をしないと公言している相手に恋をするなんて不毛だ。 こいつだけは好きにならない。 いつかのエリオットがそう思ってくれていたら、私は救われる。 それでも今、こんなに必死に私と向き合う彼がどんなに自分を思ってくれているかなんて、考えるまでもなく分かってしまう。 私だって彼と意味合いは違えど、エリオットのことが好きだ。 恋愛対象に見れないだとか、友達止まりで居たいとか、そんな陳腐な気持ちとは決して違う。 確かに愛しているのに。大好きな人なのに。 私に恋ができないだけ。 「ごめん」 「謝ったら許さないって言ったろ」 「でも、ごめん。本当にごめんなさい…」 「…オレは、言うのを何度も躊躇った。おまえの答えが分かってたからな」 「…エリオット」 「馬鹿みたいだろ。それでも希望を持ちたくなるくらいには、おまえのことが好きなんだよ。オレが変えられないかって、思ったこともあった」 「その言葉は、素直に嬉しいよ」 「おまえ…、本当にひどい奴だな。そういうこと言うなよ、期待するから」 驚いたように、エリオットは重かった口調から一転、明るく笑う。 そこには誤魔化しも自嘲も一切なくて、吹っ切れた様子の彼はなんて強いのだろう。 代わりに、私の姿は目も当てられない。 エリオットの言葉の途中から、涙が溢れて止まらない。 ぼろぼろと熱い滴がいくつも流れて落ちていく。 私はこんなに彼の気持ちをもらえて嬉しいのに、それをその形のまま受け取ることを頑なに避けてきた人間だ。 本当にひどい奴だと思う。 一番辛いだろう彼の前で泣くなんて身勝手だ、と乱暴に拭えど涙は途切れなかった。 力任せに拭うのを続けていれば、呆れたような彼の腕に止められる。 「こするな、赤くなるだろ」 「…エリオットはどうしてそんなに優しいの」 「オレは優しくねえ」 「うそ、絶対優しいよ」 「はあ…泣かすために告白したんじゃなかったんだが」 心底参った、という様子で頭を掻くエリオットのさっぱりとした物言いは清々しい。 ますます自分はみっともなくて嫌だなぁ、なんて思う。 我が儘はそのままに、彼への罪悪感が拭いきれないなんて。 どうしてこんなに綺麗であれるのだろう、彼は。 「あーもう、泣くなよ」 ついと滑った指先がまなじりの滴をさらっていった。 恥ずかしくて身をすくめると、エリオットが困ったように笑う。 ふわりと穏やかな表情はよく似合っていて、格好良い。 いっそ全てを投げ捨ててしまって彼に何もかも委ねる方が絶対に楽なんだろう。 そんなことはできないけれど。 「泣くなって」 「でも私は、今、自分がどうしようもなく嫌いだよ」 「ったく、そんなこと言うな」 いい加減呆れられてしまったか、そう思うより早く、彼の手が優しく私の前髪を払う。 あっという間に額へ軽く落とされたそれに、暫し思考が停止する。 エリオット、とかすれた声で小さく呼べば、彼はちゃんと私を見つめて答えてくれる。 「よし、涙も止まったな。これくらいはいいだろ」 「…今のって」 「なんだよ。オレから友人って位置まで奪う気か?流石にそれはごめんだな」 照れ隠しか、いつも以上に眉を寄せたしかめっ面に私も笑ってしまう。 私が笑顔を見せた途端、安心したように目を細めるエリオットを見てしまっては、もう。 俯き、二度目の涙を必死に堪えながら口にした「ありがとう」は届いたようで、優しい手のひらが頭を撫でてくれた。 20120110 額へのキスは友愛の証 |