それは何てことのない出来事の最中だった。 エリオットの首元のリボンタイがほんの少し曲がっていた。 指摘はしても自分じゃよく分からないらしいので、直してあげようと手を伸ばす。 私の手のひらを視線で追ったエリオットの肩が揺れて、次いで強張る。 このくらい、特に珍しくもないやり取りだと思うのだけれど。 「どうかした?」 「……いや、」 二つほど年下の彼は私よりずっと背が高い。 その高さの違う目線が戸惑ったようにさまようのを感じて、小さく笑む。 動揺なんて隠しきれた試しがない性格。 分かりやすいけれど、あなたのことは分かってると言えばきっと不機嫌になってしまう。 その不器用なくらい素直なところを、私は気に入っている。 「大人しいね、エリオット」 「おまえはいつだってオレを子供扱いするから、…今更反抗をしてもな」 しゅる、と一旦ほどいたリボンを襟から引き抜いて軽く皺を伸ばす。 上等な布地を痛めない程度に指先で整えていると、やはりエリオットの視線はじっと私の手元に集中している。 それが痛いほど注がれているのに、果たして本人は気付いているのだろうか。 もちろん気付いている、というか最初からエリオットの考えていることの大半を理解している私は素知らぬ振りをする。 わざわざ私から一体何事かと訊いてあげるほど甘やかす気もない。 「なあ、名前」 「なに?」 「…何でも、ない」 何かを言いたそうに口を開くのだけれど、私が視線を合わせれば躊躇って拗ねたように口を閉じてしまう。 ゆらゆら揺れる青い瞳はこんな時だって堪らなく綺麗だ。 持ち主は今まさに自分の中の葛藤と闘っているだろうに。 そう、と小さく返すだけに留めた私は背伸びをして、エリオットの首に腕を回す。 リボンタイをもう一度襟の下に通すためにそうしたのだけれど、エリオットはぐっと近付いた距離に軽く息を止め、正面の私から居心地悪そうに目を逸らした。 これはいつも通りの反応だ。 別に他意はないので、すぐに身を離して結ぶのに専念すると、緩く息を吐き出すのが頭上から聞こえた。 こっちが困ってしまうくらい、正直なんだから。 「…そういうところも可愛いけどね」 「なんか言ったか?」 「ううん、聞こえないように言ったし」 「なんだよそれ」 呆れたような顔をするエリオットは深く追及をしてこない。 私にはぐらかされるのに慣れてしまっているんだろう。 私が手を離したリボンの具合を確かめている彼には少し申し訳ない。 これだから大人はずるいと言われてしまうのだろうか。 再び形が崩れないよう、リボンの端だけを持ち上げたエリオットが微妙な面持ちで問う。 「呼び止めたの、これのためか」 「そ、これだけ」 「…そうかよ。久しぶりに会ったのに薄情なもんだ」 子供のような口振りはそれこそ小さな小さな声だったけれど、聞き逃しはしなかった。 つい手を伸ばしたものの、癖のある髪に届く前に振り払われてしまう。 最近のエリオットは、昔ほど簡単には撫でさせてくれない。 機嫌を損ねるくらいならこのまま退散しようか、そう思って身を引いた矢先に彼の手のひらが私の手首を握った。 「待てよ」 それは多少なりとも私を驚かせる行為だった。 手を引くのはいつも私の方からで、それもここ最近では機会がほとんどなかったのに、まさかエリオットの方から引き止めるような真似をするなんて。 手を握られていることで彼を意識するよりも早く、そのしかめっ面が私の指を注視しているのに気付く。 こうして手を握ったのは、私の指輪が気になったための行動だったのだろう。 そう思うと拍子抜けしてしまって、でも内心では少しほっとする。 「これ、何だよ。前まで付けてなかったろ」 「ギルからもらったの。名前も女の子らしくなったなって、お祝いみたいなものかな」 「…ギルバートから」 エリオットの眉間がさらに寄る。 その顔はあまりしない方がいいと昔から言っているのに。 思い悩むような表情のエリオットは空いた方の手で私の肩を掴んだ。 少し力が強い気がしたけれど、目の前の彼が真剣に見つめてくるせいで、すぐに気にならなくなった。 「おまえは、その」 「うん」 「ギルバートとそういう関係なのか」 「そういうって、なに。分かりにくい」 「だから…!その、恋人とか、結婚を考えてるとか…」 「ふ、」 「笑うな!」 結婚だなんて、飛躍にも程がある。 堪えきれず笑いをこぼすと、憤慨した様子のエリオットが羞恥やら何やらで表情を歪めていた。 ああそうだ、まだ私はきちんと彼に答えていない。 そのうちに茶化すのは流石に失礼というものだ。 「…で、どうなんだよ」 「何もないよ。言ったでしょう、お祝いみたいなものだって」 「本当に何もないのか?」 「そんなに疑わなくても。指輪一つくらいで大げさなんだから」 「…おまえに何が分かる。その手に光るそれを見て、オレがどれだけ焦ったか」 知らないくせに。 若干悔しそうな声で呟かれたそれが耳に届くと同時に、エリオットが私の手を握り直す。 その仕草も、私から少し手のひらをずらして指を絡ませれば途端にぎこちなくなる。 そんな彼が好きなのだ。 「名前、なん…」 「それで?」 「は、」 「私はどうすればいいの?エリオットが言うなら大抵のことは聞くつもりだけれど、まさか優しいエリオットはこの指輪を捨てろとは言わないよね」 「それは、だな…」 嫌だけれど無理強いはできない、そんな表情をする。 言葉に詰まった様子の彼に私はやれやれと微笑んだ。 からかうのもほどほどに。 でないと彼に怒られてしまうし、何よりここまでしてくれたエリオットの誠実さに応えなければ。 「外そうか?」 「…いい。オレがおまえに贈るまで、待ってろ」 予想外の言葉に目を何度か瞬かせてしまった。 なんだよ、と不満そうなエリオットの声も気にならない。 いつの間に彼はこんなに大人になっていたんだろう。 先に許されてしまうなんて、これじゃあ年上だというのに私の立場がない。 けれど、今はそれに甘えるとしよう。 「それじゃあ待ってるね。楽しみに」 「あまり高いのは無理だからな」 「そんなこと言ってないのになぁ」 「…なあ、一つだけいいか」 何を、と問い返す前に柔らかい色合いの髪が風にふわりと揺れて、エリオットが静かに腰を落とす。 その手のひらが私の手を緩く持ち上げたかと思うと、指輪を嵌めた場所に彼がキスを落とした。 それは一瞬の出来事だったのに、時が止まったような錯覚に陥る。 「…これでいい。それ、付けるの許しといてやるよ」 「エリオット…?」 「やっぱり他の奴からの指輪なんて癪だからな」 ほんの少し意地悪い顔でエリオットは笑った。 代わりに私には余裕なんか残されていなくて、困り果てて視線を逸らした。 それを優しくエリオットの方へ向け直す両手が私の頬に添えられて。 いつもとまるで立場が逆だ。 「やだ、私の方がお姉さんなのに」 「年は関係ないだろ。名前は昔っから、ただオレの好きな女だ」 「エリオットのくせに生意気」 「言ってろ」 「でも、うん。嬉しい。ありがとう」 「はいはい、どういたしましてって返せば満足か?」 抑えきれなかった涙が一つ、落ちる前に優しい指先に拭われた。 20120107 きっとナイトレイ邸のどこか 二人は幼なじみ |