ひらり、窓の外をぼうっと眺めていたら手のひらが視界を遮って、目で追った。
手の主は向かいの席に座る二人のうちの一人であり、彼女は右手の指先を左胸にあててから右胸にあてる動作をする。

『大丈夫?』

それは彼女が、生傷や痣の絶えない主人や自分のために唯一、真っ先に覚えた手話だった。
同じ動作で『大丈夫』と返すと、彼女は少し微笑んだ。
机にうつ伏せて眠る主人を起こさないよう、そうっと立ち上がりやって来た彼女は、自分の隣に腰掛けた。
机の上にあったペンを取り、さらさらとノートに何かを書いていく。
友人の眠りを妨げないように、また自分と会話するために、彼女が選んだ手段は筆談だった。

『ぼーっとしていたのは考え事?好きな人でもできた?』

いかにも彼女くらいの年頃が興味を持ちそうな話題。
しかしそれはあながち間違っていないのだ。
時折やけに鋭いくせに、その対象が自分かもしれないとは露ほども思っていないらしい。
じっと目を見つめ返すも、彼女は楽しそうに表情を和らげるだけで、ノートにさらに書き込みをしていく。

『どんな人?教えて!』

自分の態度はどうやら肯定と取られたらしい。
なんとなく、本人に話してしまってもいいような気がしてペンを取る。
彼女が書く端正なアルファベットのすぐ近くにまだまだ拙い字を書くのはためらわれて、別の紙にこう記した。

『としうえのひと』

なんだかヒントを少しずつ出して、答えを当てるゲームのようだ。
彼女は少し考えて、次の言葉を書いた。
さらさらと、ペンが紙の上をすべる。

『意外。ニコラスって、守ってあげたくなるような年下の子が好きかと思ってた』

しばし、返答に迷う。
たまたま好きだと思う相手が年上だっただけで、別に年齢による好みはないと思う。
むしろ彼女と永遠に埋まらない年齢差はわずかに疎ましいくらいなのだ。
仮に、彼女が言うような人物が自分の目の前にいたとして、きっと距離を置くのではないだろうか。
あまりにか弱い相手では、自分がたやすく傷付けてしまうのではと懸念する。

『他には?どんな特徴の人?』

彼女が促す。
なんたって本人の前だ。
思いつく限りの単語を次々挙げていく。

『やさしい』
『よくわらう』
『とても、ものしり』

彼女は自分が綴っていく文字を楽しそうに見守っている。
それは今が初めてじゃない。
いつだって、自分や主人のことを遠巻きではなく限りなく近い場所で見ている人だった。
ふと彼女が指差して、スペルミスを教えてくれた。
白くて小さい手が伸びてきて、たった今書いていた紙に正しいアルファベットを書き添える。
端正な字が、自分のいびつな字に並んで、どうしてか面映ゆい気持ちになる。
途切れた文字を続けて、これが一番彼女に相応しい言葉なんじゃないかと思って、ペンを置く。

『みたことのないせかいを、みせてくれるひと』

彼女はすぐには字で答えなかった。
問いかけに返された答えをゆっくり飲み込んで、咀嚼するように、いつまでも紙の上の字を見つめていた。
彼女は穏やかに息をひとつ吐くと、ペンで短くこう記した。

『よかったね』

紙を見てから、視線を彼女へ。
思わず目を合わせたまま首を傾げると、彼女は笑う表情のまま字を書いていく。

『私、初めてあなたに会った時、感情がないんじゃないかって思ったの。ごめんなさい。そんなはずないのにね』

…仕方のない話だ。
ここに来るまで、年の近い人間は身近に一人もいなくて、大人の中で息を殺して、言われるままに人を殺して生きてきたのだ。
主人や彼女が笑うとき、自分は笑うことができなかった。
二人にはあるものが、自分にはあちこち欠けているのだと思った。
ペンを置いた彼女の唇を、いつもの習慣から目で追う。
彼女は声にして何かを伝えたいのだろうと、反射的に感じ取った。

「今こうして、私のそばで、自分の言葉で、こんなにもたくさんの感情を表してくれる。私、出会った時よりずっとあなたが好き」

最後のほうの言葉を読み取って、無意識に自分の胸のあたりを押さえつける。
ぎゅう、と握りしめて皺が寄る衣服は、自分の心模様とそっくりだと思った。
彼女に他意はない。その言葉の意味合いも自分のものとはちがうはずだ。
わかっているのに、鼓動は早くなった。
彼女は、ノートに書いた言葉をもう一度、今度は口にして言った。

「本当によかった。ニコラス」

意味なんて、唇を読めばいくらでもわかる、けれど。
今、彼女がこぼした声を聴いてみたかった。
きっと優しい声で囁いた彼女の手のひらが、くしゃりと自分の頭を撫でていく。
思わず目を閉じそうになる。
こうされている間だけは、すべて委ねてしまいたくなって、自分が恐ろしく無防備になるのを自覚する。
離れていく手のひらをきゅ、と握ると彼女は不思議そうな顔をした。

「ニコラス?」

そうっと手のひらに力をこめて、逃げられてしまわないようにと感触を確かめる。
柔らかくて細い、彼女という存在が、自分が触れても壊れないことに安堵しながら。
するり、指と指を絡ませるように手の握り方を変えれば、さすがに彼女の頬がふんわりと赤く染まっていく。

「……ニコラス、」

どうしてだろう。
平静でいたいのに、心臓がどくどくとうるさくて、彼女からうつったかのように顔が火照った。
自分は、いま、とても恥ずかしいことをしている。

「ニコラス、好きな人って、まさか」

ふと、いたずら心のような、自分の中の悪い欲が顔を出す。
彼女が自分の気持ちを暴いてしまう前に、もう言葉が紡げないよう、その口を塞いでしまおうか。
手段は問わない。
それが一番、自分にはお似合いだ。
あと三秒だけ、待ってみよう。
それから先はもう、知らない。

20151106
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