彼女は、主人が好意を寄せる相手だった。 聡明で芯の強い彼女に、主人は憧れと同等かそれ以上の感情を抱いていた。 傍目から見ても良家の娘と権力者の家の次男は似合いに思えた。 主人が年相応の表情で穏やかに話すのは彼女と自分くらいのものだったから、彼の日常を埋め尽くす鬱憤を晴らしてくれればそれに越したことはないと。 そんなふうにしか思っていなかった。 主人が信頼する相手だろうと、自分の仕事は彼の護衛である。 どんな人間であっても、警戒をしなくてはならない。 だから、今目の前に差し出されている花の束には、困った。 「ニコラスのことを考えて、うちの庭から選んできたの」 どうして自分なんかに。 言いたいことは、不明瞭な自分の声のせいでなかなか形にならない。 主人は、席を外していた。 屋敷の、いつもの文字を学ぶ一室でふたり、顔を合わせた彼女は嬉しそうに自分へ花を向けている。 「受け取って、ニコラス」 これは、ただの花ではない。 花の形をした、自分などが決して受け取ってはいけないものだ。 本当に自分のことを思って選んだものなのか。 そう疑ってしまうくらいに、自分に向けられた好意は華やかで、色とりどりで、自分に似つかわしくなかった。 「…も、ぁえ ませ ン」 「もらえない?どうして?」 ようやく絞り出した一言を、彼女はいともたやすくほどこうとする。 聞いてくれるな、と思う。 だって、彼女の望むような答えはできない。 「ぃ えあ、せン」 言えない。 言えるわけがない。 それはどうか自分ではなく主人に渡してほしいと。 彼を傷付けることは無論、彼女を傷付けることだって出来ることならしたくはない。 「言ってほしい。言ってくれないと、わからないよ」 「…、」 ああ。 こんな時に限って主人はどこへ行ってしまったのだろう。 彼女と視線を合わせていられなくて、顔をわずかに逸らす。 「ひつ ょう ない もの、ぇす」 ふと思いついて、そう口にした。 そうだ。自分にはそれは必要のないものだ。 日頃から硝煙や血にまみれた自分には、小綺麗な部屋で文字を習うことさえ、少し落ち着かないというのに。 彼女が手ずから、大切に育てたという花を受け取るなんて一生できないことだと思った。 しかし、言いたいことの半分も伝えられなかったのだと思う。 顔を上げて、彼女を見てから何も言えなくなった。 「……そう」 どうして、そんなくしゃくしゃに顔を歪めて笑うのか。 彼女がぎゅう、と力をこめるから、花の茎が折れてしまいそうになる。 訳がわからないまま、きっと自分は彼女を傷付けたのだと思い、胸の奥がざわついた。 「ニコラス。ウォレスからもらった本は、今も大事にしてる?」 こくり、と頷いて返す。 意思疎通のために、生活していくのに必要なもの。手話。 もちろんそれだけが理由のすべてではないが、主人に渡された本は丁重に扱っていた。 その時だ。 彼女が手のひらを広げたから、支えを失った花が無数にばらばらと床に落ちて広がった。 「やっぱり、男の子に花なんてだめよね。でもね。私が自由にあげられるものなんて、これくらいしかなかったの」 彼女の言わんとしていることが、わからない。 どうすべきか迷っていると、彼女は軽く目尻をこすり、言った。 「悪いけど、それ捨てておいて。ニコラスがいらないものはきっとウォレスもいらないから」 彼女は出て行き、部屋には一人、自分だけが残された。 追いかけたほうが良かっただろうか。 いや、自分が彼女のためにできることなど何もない。 諦観とともに足下の花を一本一本拾い上げていると、肩をとんと叩かれた。 「ニック。何してる?」 「…うぉ えす、さ」 「この花、名前の…もしかして名前が来てたのか?」 主人は、すぐに彼女が持ってきた花だとわかった。 自分だったら、彼女の庭のものであるのか店で買ったものであるのか、言われなければわからない。 やはり、自分ではなく彼が受け取るべきものなのだ。 「なんでこんなに散らばってるんだ?喧嘩でもしたのか?とりあえずニック、花瓶を探してきて。飾らなきゃもったいないだろ」 「ぁ い」 一礼をして部屋を出る。 すぐ隣の部屋を探せば花瓶なんていくらでもあるだろうに、廊下を歩く足を止めたくはなかった。 無残に床に散らばった花の色より。 戸惑いながらも彼女の名残に優しい目をする主人より。 今にも泣きそうな顔で笑った彼女の残像が何より強く焼き付いてしまった。 ここから今すぐ逃げ出してしまいたいような、彼女を追いかけて勢いのままに抱きしめてしまいたいような、自分の胸がぐちゃぐちゃとした感情に軋んでいるのをようやく自覚する。 深くこうべを垂れて、できるだけ遠くの部屋へ向けて歩いた。 この感情に名前をつけてはいけない。 20151104 |