ずいぶん昔、まだ俺の手のひらが小さくて生み出せる爆発も小さかった頃、名前が夜に家へやってきては「今日見た夢が怖かった」と泣いた。
その時は臆病者だと、弱っちい女だと思い、笑ってやったのだ。
現実じゃないものがそんなに怖いのかよ、と。
それからしばらくして、俺は俺がすごいことに気付いて、人並み以上に強く強く成長してきた。
周りの連中も年を重ねるにつれて、俺に敵うほどじゃないものの、それなりに成長しているのだろうと思っていた。
高校入学の直前だったある日。
幼馴染の弱虫な女が家を訪ねてきたことで、こいつだけは何も成長していないのだと知った。

「かっちゃん。怖い夢、見た」

そいつはおずおずと、しかし俺の部屋のドアノブはしっかりと離さないまま言った。
だから何だ、としか言いようがない。
きっと今の自分の顔は嫌悪感丸出しだろうが、目の前の奴は気にする素振りも見せない。
そういうところだけは神経が図太いのだ。昔から。
こんな夜遅くに人の家を訪ねてくるのもそうだ。
赤の他人にはしないのに、俺に限って遠慮がない。
母さんもなんでこいつを家に上げるんだ、と呆れた気持ちになる。

「それで?」
「……?」
「不思議そうな顔してんじゃねえよ。それでてめェは、ここまでやって来てどうしたいんだ」

名前は体の前で指を絡ませる。
言いにくいことを口に出す時にやる、こいつの癖。
もうすっかり見飽きたものだ。
言い出すのを躊躇うくせに、名前の声色はやけにはっきりしていた。

「かっちゃんにそばにいてほしい」

そんな言葉で俺の心が揺らぐはずもなく、俺は黙って我が儘極まりない女の肩を押してみたが、帰る気はないようだ。
むっとした顔でこちらの肩を押し返される。
歯向かわれたことに腹が立ってくるが、相手が女というだけで追い払うための選択肢が限られる。
力ずく、という言葉が頭に浮かびそうになるが、何とか堪えた。
こいつをどうにかしてやりたいのは山々だが、乱暴にして後でぶつくさ言われるのが一番面倒くさい。
結局対処に迷っているうちに、名前にするりと自室に滑り込まれた。

「チッ。おい出てけ」

いつもの癖で罵声を浴びせたが、名前は惚けたようにクローゼットの前に立ち尽くしていた。
その視線を辿ると、入学まであと少しだからと無造作に置いてある高校の制服があった。
何が気になるのか、名前は目を逸らさない。
ほう、とため息を吐くのが聞こえてくる。

「かっちゃんがまたいなくなっちゃっう」
「あ?」
「夢のはなし」

名前は意味不明なことを口にした。
思い返せば、こいつは怖い怖いと喚くばかりで、肝心の夢の内容について今まで一度も語ったことがなかったはずだ。
俺がいなくなる、夢。
それを怖いと感じるのはどういう意味なのか、深く考えなくたって、知っている。
そばにいてほしいと恥ずかしげもなく人の目を見て言うこいつは、まるで俺とは正反対の人間だ。

「ずっと同じなのかよ」
「え?」
「お前が怖がってた、夢の内容ってのは」
「そうだよ。私が怖くて不安になってかっちゃんに会いに来てたこと、知らなかった?」

少し意外そうに笑う、名前は本音をはっきりと口にしない。
回りくどいことに苛々として、じろりと睨みつけるが、この無神経な女は平然としていた。
平然と、こんなことを口にするのだ。

「かっちゃんは遠くに行くんだね。夢が本当になっちゃったな」
「…別の高校に行くくらいで」
「大げさだと思う?そう思うことができるなら、きっと私の気持ちは一生わからないよ」

名前はようやく制服から目を外し、くるりとこちらに向き直る。
普段と変わらない、馬鹿みたいに明るい笑い方をする。

「応援してるからね」

その言葉を最後に、名前は足早に俺の部屋を出て行こうとした。
何もせず見送るのは容易かったと思う。
俺も、さっきまではこいつに出て行ってほしいと思っていたはずだ。
それなのに、一瞬の笑顔に違和感がこびりついて離れなくなって、俺は名前の細っこい肩を掴んで引き寄せた。
名前は二、三歩よろけて、立ち止まる。
弱っちい女が相手では、引き止めることも容易い。

「待て」

名前は振り向かない。
俺の声色で機嫌の悪さが読み取れないほど、付き合いは浅くない。
都合が悪い時、俺の怒りを買いたくない時、こいつは決して目を合わせない。
分かっているんだ。
認めたくないが、長い付き合いのせいで。

「お前、もう俺と会わないつもりじゃないだろうな」

ひどく簡潔に、伝えた。
名前はやっぱり振り向かなかった。
それは図星だと言っているようなもので、俺が吐き出した溜め息には無数の見えないイライラが紛れ込んでいたに違いない。

「…だったら?かっちゃんには関係ないでしょ」

一見強気な発言をする名前の肩に触れている掌に、かすかな体温がにじんでくる。
俺のものではない温度。
弱っちくて、面倒臭くて、どうでもいいはずの生き物の温度。
それでも、掌を離そうという気は起きなかった。

「否定してほしいからって、本音とは裏腹のことを口にするなんて、馬鹿正直なお前らしくねえんだよ」
「…」
「言えよ。本当に思ってることを。」

あと少しだ。
もう一押しで、こいつは本当の気持ちを言う気がする。
それを押し隠したままこいつと会わなくなるのは、さすがに間違っていると思うんだ。
掌で掴んだ肩から、戸惑いと動揺が伝わってくる。
名前はひとつ、息を吸って、吐いた。
そうだ。それでいい。
今こそお前の図太さを見せてみろ。

「かっちゃん。好きだよ、昔から大好きだよ。お願い。どこにも行かないで」


20151018
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