平介の机の上にくしゃりと丸められた細長い布切れがあった。 あまり使われていない感じのするそれを持ち上げれば、しゅるりとほどけて長く垂れ下がる。 上質な布の滑らかな手触りに、私は無意識のうちに物の名前を口にする。 「ネクタイ?」 「あー、それね。どうしたもんかねー」 私の呟きを耳にしていたらしい平介は背中で返事をした。 本棚の前で丸まっている猫背の彼は、あきくんにあげる絵本を選別している最中らしい。 遊びに来た彼女の私は放ったらかしで、けれどもそんなの慣れっこで、平介の部屋を思い思いに物色している時に件のネクタイを見つけたのだった。 ネクタイは使用感が薄い割に様々に結ばれて、くたびれているように見えた。 はて、平介がネクタイを身に付けている姿なんて入学式以来見たことがない。 「これ、どうするの」 「卒業式に出席するならしてこいってさ」 「ああ」 そういえば卒業シーズンだ。 なんだかんだで顔が広いこの男は縁のある先輩のために出席するらしい。 平介が先輩思いの後輩、なんてことはないから相手に強制的に出るよう言われているのではないだろうか。 当日に花束を用意するとか、そういう心遣いもなさそうだなぁ。 自分の彼氏の猫背を生ぬるい気持ちで見つめていると、不意に平介は立ち上がった。 視線が合った彼は、思いつきのように口にする。 「そうだ名前。ネクタイの結び方知ってる?」 「え。平介知らないの」 「思い出せそうで思い出せない。あっくんに同じように訊いたら知らないって」 「そりゃ知らないでしょうよ。あの子いくつだと思ってるの」 「いやー意外とね?知ってるかもしれないじゃん」 おばさんは知ってるらしいよ、なんてのほほんと言う平介にため息が出てしまう。 その様子だと、結局おばさんに結び方を聞いたわけでもなさそうだ。 私は手にぐるぐると巻いて遊んでいたネクタイをそのままに、平介に歩み寄っていった。 ほどいたネクタイを彼の首に回し、表になる側を上にして細い方に巻き、穴に通してきゅっと締めた。 その間約三秒。 私の手際が予想外だったらしく、眠たげだった目が意外そうにまばたきをした。 固くきちんとした結び目を手のひらで撫でやり、「おおー」とあまり感心していなさそうな声音で言う。 「なんで結べんの?」 「昔、兄にやってあげてた」 「ほー」 その昔、中学は学ランで高校は私服で過ごしてきた兄が、高校の卒業式になって急に慌てていたことを覚えている。 慣れないスーツに加えて初めてのネクタイだった彼の手伝いをしているうちに覚えてしまったものが、こんなところで役に立つとは思わなかった。 あまり感心していないように見えた平介は、きれいに結ばれたネクタイを何故か誇らしげにやたらといじくり回している。 そうしてぽつりと、言った。 「おれ、名前の兄に立候補してみようかな」 「なぜ」 「なぜって。うらやましかったからだよ」 不思議な発言をした彼氏を思わず見やると、へらりとした笑みを返された。 うらやましかった?何が? ネクタイを結んでくれるような相手がいることが。 妙なことを羨ましがるなあ、と思ったものの、一人っ子である平介の気持ちを私が分かるはずもなく、そんなものなのかもしれないと結論付けることにした。 平介が、兄。 頼りないを通り越して、それによって被るであろう妹としての尻拭いの数々を容易に想像できてしまって少し恐ろしくなった。 というより、彼女の兄になりたがるのはいかがなものか。 それはもう恋人ではないだろう。 考えた末に、私は口を開いた。 「私の兄にならずともいいのでは?」 「どゆこと」 聞き返した平介は相変わらず、何も考えていなさそうな顔だ。 私は指を立て、もっともらしく敬語で提案してみる。 「私を平介のお嫁さんにしてくれればいいのです」 ああ、なんて単純な思考回路。 そうしたらネクタイを結ぶどころか毎日ご飯を作ってあげられるのだ。 果たして平介がネクタイを身につけるような職業に就くのかどうか、それは考えても無駄なので置いておく。 私は平介の作るお菓子を毎日食べられるかもしれない。 単純だが、素敵な提案だと思う。 たかが高校生の身分である私の言ったことでも、いま隣にいる平介には届いたはずだ。 何も考えていなさそうな瞳が、ゆっくりとまばたきをした。 へらっとしたいつも通りの笑みが浮かぶ。 平介は珍しく、大きな声を出した。 「それだ!」 星が落ちてきました! 20140327 |