「うん、風邪だね!」
「知ってます……」

頭は痛いしぼーっとして、洟は止まらず咳くしゃみその他諸々。
既に分かりきったことを親切にも再び宣告してくれたクダリさんに返した声はカラカラのガラガラだった。
「うわあ、ひどい声」と、笑顔はそのままに眉が下がり、クダリさんは苦笑いの表情になる。
彼は水銀の体温計を振ってから、ケースに仕舞ったようだった。
看病をしてくれている彼に気を配る余裕さえ、今の私にはなかった。

「ごめんねえノボリじゃなくって」
「いえ…こちらこそご迷惑を…」
「そういう堅いところ、ノボリとそっくりだね。ま、寝てなよ?」

布団の上からぽんぽんと肩を叩かれて、必然と瞼が重たくなってくる。
バトルサブウェイのホームを線路に落ちかねない様子でふらふら歩いていた私が耐えきれず倒れる間際、視線の先ではノボリさんがとても驚いた顔をしていた。
ぱっちり見開かれた瞳と、呆けたような三角形の口、そして彼が私を呼ぶ声。
彼に会いに来たのに体調不良で倒れた挙げ句、そんな顔をさせてしまうなんて。
ごめんなさい、すみません、心配しないでください。
声は出ないまま、駆け寄ってきたノボリさんや鉄道員さんに介抱された私のことを、忙しくて手が離せないノボリさんの代わりにクダリさんが救護室まで運んでくれた。
ダブルトレインはちょうど明日定期点検に出す予定だったらしく、早めに業務を切り上げてくれたのだそうだ。
スーパーダブルの方は、と朦朧とした意識で問いかければ、「こんな夜遅くから勝ち抜いてくる人いないって」と笑われた。
そうは言っても、彼らが常に挑戦者から引っ張りだこで暇のない職業であることには変わりがない。
しょげる私を察してか、クダリさんが手袋を嵌めた手のひらでゆっくりと頭を撫でてくれた。
体調が悪いと心細くなるって、本当だ。
子供扱いの手つきのそれにとても安心した気持ちになった。

「元気出して、早く良くなって。ノボリが心配する。ぼくもね」
「…はい」
「遅くなるかもしれないけれど、ノボリ来るって言ってたから。ぼくも仕事手伝いに戻るよ」

何かあったら呼んでね、と手を振ってクダリさんは部屋を出て行った。
彼がお供にと置いていってくれた枕元のバチュルを撫でると、ふかふかした手触りに心が少しやすらいだ。
けほ、と咽せた私の声が静かな室内に響く。
薬は飲んだし、食べ物も少し口にした。
少しだけ眠ってもいいかな、と考える。
体力がある程度回復すれば自力で帰ることができるかもしれない、とわずかな期待を抱いて目を閉じる。
既に面倒を看てもらってはいるけれど、バトルサブウェイの職員の人たちにもクダリさんにも、できるだけ迷惑をかけたくない。
そして何より、心優しいノボリさんに余計な心配をさせてしまうのは嫌だ。
抗えない眠気に意識が落ちていく感覚は一瞬で、私はいつの間にかぐっすり眠っていた。





コツコツ。キィ、パタン。
どれくらい時間が経った頃だろうか。
控えめな物音が私の意識を揺らし、それは気遣わしげな所作を思わせた。
体調が万全ではない上に寝起きだと判断力がずいぶん鈍っていて、私は目を閉じたままぼんやりとその人がそばに来るのを待った。
ポケモンをボールに仕舞う音がして、指先に当たっていたわずかな手触りがいなくなる。
クダリさんのバチュル。
頭に思い浮かんだのはそれだったけれど、どうしてか私はその人がクダリさんではないような気がしていた。
ふと影が落ちてきたのを瞼の裏で感じ取った時、しゅるりと布がこすれあう音が聞こえてきた。
次いで、少し冷たい手のひらが前髪をかき分けてから額に触れる。
その感覚に無意識のうちに身じろぐと、手のひらは遠慮がちに一瞬浮き、今度はゆったりとした動作で頭を撫でてくれる。
手袋を外した手のひらは優しくて、こんな風に触れてくる人物を私は一人しか知らず、うっすらと目を開けた。
すると予想した以上に近い距離でノボリさんがこちらを覗き込んでいたので、驚いて何度かまばたきを繰り返した。

「おや、起こしてしまいましたか?申し訳ありません」
「…おはようございます」
「はい。よく眠れましたか?体温計を探したのですが、見当たらなくて」

確かにクダリに渡したはずなんですけれど、と言いながら彼が離れる。
おそらく私の熱の具合を詳しく診ようとしていたノボリさんから隠れるように、そっと布団を引き上げる。
顔が熱くなって、思考が余計にあやふやになるのは仕方がないことだと思う。
体温計が見つからないと判断したらしく、こちらへ向き直ったノボリさんが指先のきれいな素手を伸ばしてきた。

「わたくしがお会いした時より顔色が大分良くなったようで安心しました」
「は、はい」
「起き上がれますか?」

頬に触れてきた手のひらに、すり寄りたいような逃げたいような微妙な心持ちで、言われたとおり身を起こす。
自力で歩けない私の姿を見ていたからか、ノボリさんはそれを見てほっとしたようだった。
本当に面目ない。

「私、どれくらい眠って……あの、いま何時ですか?」
「業務が終わったあと少々残業をこなしましたので、深夜一時過ぎでしょうか」
「え」
「遅くなってしまって本当に申し訳ありません」
「いえ、いえ。そんな」

思っていた以上に私はぐっすり眠っていたらしい。
聞けばクダリさん含め他の職員の方々は既に帰宅をしていて、ギアステーション内に残っているのは私とノボリさん、それと夜勤の職員数名とのことだった。
お世話になった方々にお礼を言いそびれたことにすっかり意気消沈していると、再びノボリさんが頭を撫でてくれた。
子供をあやすような手つきだった。

「気を落とさないでください。御礼より何より、あなたが早く良くなる方がクダリたちも喜びますよ」
「同じことを、クダリさんにも言われました」
「おや」
「…元気になったら改めてお礼に来ます」
「そうしましょう」

私が素直な返事をしたことに、心なしか嬉しそうな反応を見せるノボリさんに面映ゆい気持ちになった。
雑談をする余裕が出てくるほどには、自分は快復してきたらしい。
ノボリさんも私に帰るだけの体力があると察したらしく、救護室を簡単に片付ける。
彼が私の鞄を持ってきてくれたので慌てて身を起こすと、手のひらで制された。
思わず動きを止めた私に、ノボリさんが静かに言う。

「膝を上げていただけますか」

一瞬何を要求されているのか分からず、私は呆けてしまった。
ノボリさんは変わらずこちらをじっと見つめてくるので、戸惑いながらも三角座りのように膝を曲げた。
するとあっという間にノボリさんが膝裏に腕を回し、肩を支えて私を抱き上げたから、びっくりした。
そのまま何でもないように、私の荷物と自分の荷物を持って救護室を出ようとする。

「ノ、ノボリさん」
「はい?」
「待ってください。自分で歩けます」

彼の肩を控えめに叩いても、ノボリさんは止まってくれない。
電気を消し、ドアを閉めて救護室を施錠する。
深夜のギアステーションは無人で静まり返ってはいたけれど、この状況に私は慌てふためくしかなかった。
間近でノボリさんが見下ろしてくるので、いちいち息が詰まりそうになる。

「嫌ですか?」
「そう、ではなくて」
「あなたが耐えられないというならば、代わりにわたくしのオノノクスにお願いしましょうか」
「それは…余計に目立ちますね」

提案された代替案に思わず声が小さくなる。
ノボリさんはそれを了承と受け取ったらしく、構わず歩を進めた。
コツコツ、と静かな空間に響く一人分の足音がいやに鼓膜を震わせる。
ノボリさんの横顔は穏やかではあったけれど、どこか有無を言わせない雰囲気があった。
じいっと見つめていると、しばらくしてから彼が観念したようにため息を吐く。

「実は、わたくし少々落ち込んでいるのです」
「どうしてですか?」
「あなたの不調に気付けなかった。そればかりか倒れるところに間に合わず、抱きとめることも適いませんでした」
「そんなこと、気にしなくていいんですよ」
「わたくしにとっては大事なことであることを、どうかご理解ください。仕事が立て込んでいるからとあなたの看病をクダリに任せるなんて、恋人として不甲斐ない気持ちでいっぱいなのです」

普段物静かなノボリさんから、私たちの関係をはっきり「恋人」と口にされると、それだけで頬が火照るような気持ちになる。
気恥ずかしくなる私とは反対に、ノボリさんは本当に後悔をしているような様子だった。
心配になって見上げると、私の頭にノボリさんが猫のように頬を寄せてくる。
甘えるように見えて、その仕草は懇願に似ていた。

「あなたが無事で良かった」

そう囁き落とされて、私は胸が苦しくなった。
私が起きた時は平然としていたのに。
優しく落ち着いた様子を崩さなかったのは、不調の私を不安にさせないためだったのだと知る。
ようやく安心したと言わんばかりの表情に、彼に心配を掛けたくないなんて願いは消え失せてしまった。
きっと彼が望む言葉は謝罪などではなく。

「…ありがとうございます。ノボリさん、私を連れ帰ってくれますか?」

今日はじめて心の底から彼を頼る発言をすると、ノボリさんはとても嬉しそうに微笑んでくれたのだった。

20131226
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