名前さんは強い人だった。 それは身体的能力という意味ではなく、俺に対する態度と精神的な面という意味で。 十束さんの恋人である彼女はどこか十束さんと似ているところがあって、飄々としていて抜け目ない印象が強い。 彼氏と彼女の両方に気性の穏やかさがあるからか、二人の関係は常に良好なようだった。 喧嘩をしているところなんて見たことがなく、たまに名前さんの機嫌が悪いと思えば十束さんが無茶をして危ない目に遭った時くらいだった。 基本的に仲睦まじく、彼女は吠舞羅にもよく馴染んでいて、古株ということもあってなかなかの発言権を持っていた。 とはいえ名前さん自身はキングの配下にはなく一般人であるので、その権利は翔平やエリックに絡む際、ささやかに使われていたのだけれど。 中でも俺への風当たりは強く、よく彼女とそれに便乗するメンバーにはいじり倒されていた。 俺ばっかりをからかう理由を聞けば、「私なりの愛だよ」とあっけらかんと笑っていた。 もちろん、表面上で言い返しはしても真に不満に感じていたわけじゃない。 いじられて喚く俺の姿も含めて、楽しそうに吠舞羅メンバーと話す彼女を見ている時の十束さんは幸せそうだった。 そんな十束さんを見れば俺たちも安心できたし、この場所の平穏は永遠に続くような気がしてたんだ。 俺は本当に馬鹿な奴だ。 子供じゃあるまいし、永遠という言葉が実現しないことは痛いほど知っていたはずなのに。 「帰りましょうよ。…そこ、冷えますから」 名前さんはいつまでも岩場にしゃがみ込んでいた。 血も、骨も、灰も。 キングの炎は十束さんの面影を一つも残さず焼いてしまって、火葬の場にはわずかな焦げ跡が残るばかりだった。 そこから十束さんの残滓を掴み取ろうとしているのかと思い、彼女のそばに歩み寄って横顔を覗き込んだ。 これ以上、その細い肩や頼りない背中を見つめていられなかったからだ。 「…さんちゃん」 焦げ跡からじっと目を逸らさないままでいる彼女は、意外にも穏やかな表情をしていた。 懐かしむような瞳をして、彼がいたはずの場所を優しく見つめている。 たとえ死んでしまっても、二度と会えなくても、彼女の隣には十束さんの姿がある気がした。 ああ、敵わないな。 名前さんを見て、漠然と痛感している自分がいた。 「多々良、笑ってたね」 「そうですね」 「きっと本気で幸せだと思って死んだんだろうね」 「俺は、あまり信じたくないです。こんな終わり方で満足だなんて」 「うん。残された方は、みんなそうだよ。納得なんてできないよ」 残された方。 名前さんもその筆頭であるはずなのに、凪いだ海のような笑顔は崩れない。 無理をしているポーカーフェイスには見えなかった。 彼女は彼女なりに汲み取ったのだ。 キングが復讐を誓ったように、十束さんの死は様々に響いて、中には名前さんのように十束さんの遺言を忠実に聞き入れる人間もいる。 深い悲しみに捕らわれているからこそ、各々が納得のいく形を探して、故人の思いを重ねる。 俺たち吠舞羅と彼女は、その形を違えている。 「もう吠舞羅にはいられないなぁ」 名前さんがゆっくりとした動作で立ち上がり、ぽつりと言った。 考えていることを見透かされたのかと思い、ぎくりとした内心を抑え込む。 戸惑ってから、なんとか絞り出した声は妙に乾いていて、平静を保てない自分が嫌になる。 「なんで、ですか」 「もう多々良はいないからね。バーに客以外として行く理由がなくなるって、そういうことでしょう」 そこで初めて、名前さんは寂しさという負の感情を乗せて笑った。 どうしてだろうか。 俺にそんな権利はないのに、十束さんとは違う形で吠舞羅から離れていこうとする彼女を引き留めたくてたまらない。 「今まで楽しかった。うん、本当に」 「過去形にするのはやめてくださいよ」 「なに?さんちゃんは寂しがってくれる?」 エリックとかはさっぱりしていそうだから、と彼女が言葉を重ねる。 そんな風に笑うことないのに。 無理をしているようには見えないからこそ、平気そうにする彼女にやるせなさを覚えた。 まるで俺たちと彼女を繋ぐものは十束さんというたった一人の存在だと思い知らされているようで。 きっとそれは真実だ。 けれど、だからって俺たちは名前さんをあの場所から追い出したりしないのに。 彼女はそれに甘えて居座ることを良しとしない。 「名前さん、帰りましょう。あなたには落ち着いて考える時間が必要なんだ」 「さんちゃん。多々良が死んで私が自棄になったと思ってる?」 「そんなことは、」 「大丈夫だよ。自分で考えて決めたことだから、いいの」 ぐっと息を飲んで、同時に拳を強く握りしめる。 夜風が名前さんの髪を揺らしていた。 それに触れてみたい、と普段なら個人的な欲望からそう思っただろう。 今は違った。 何としても、俺はこの人を吠舞羅に連れて帰らなくてはいけない。 彼女のためにも、十束さんのためにも。 「そんな顔をしないでよ、さんちゃん」 「それはこっちの台詞ですよ」 「私、どんな顔してる?」 「すっげー腹立つ顔」 「さんちゃんのくせに生意気」 「軽口はいいんです。こっち見てください」 一歩踏み出して細い手首を握れば、名前さんは少し怯んだようだった。 別に、いい。 ここで俺が嫌われても、不信感を抱かれても、この先のために彼女を吠舞羅に引き留めておきたい。 名前さんの強張った身体を引き寄せて、その背中を出来るだけ優しくさすった。 あれほど好きだと思った女性が腕の中にいるというのに、俺の思考はやけに落ち着いていた。 「名前さん、聞いてください。十束さんは最後まで本当の意味で俺たちに頼ることをしなかった。それは悔しいことで、悲しいことで、正直やるせない」 俺の言葉に彼女の肩が震える。 彼の名前を聞くだけで揺らいでしまう状態なのに、決意で感情を押し殺してしまえるような人だからこそ、俺はその決意を突き崩してやろうと決めた。 ほんの少し、溜め込んできた不満を混ぜながら。 「あなたたちは本当に勝手ですよ。平気だって笑ってみせるところが似た者同士で」 そこに救われていたところもたくさんあった。 芯の強さが二人の最大の長所であり、短所であると俺は思う。 力なくだらりとしていた名前さんの腕がそろりと持ち上がった。 もう少し。 「だから、あなたは今くらい頼ってもいいと思います。どうしようもない時は寄りかかってほしいって思います。たとえば、俺とかに」 最後の方は声が情けなく震えた。 本当は、俺では力不足だと痛感している。 ここは十束さんがいるべき場所であって、俺には相応しくない。 だけれど、彼にはもう届かないから、誰かが彼女を引っ張って無理やりにでも繋ぎとめなくては。 最初は抱き寄せたはずなのに、いつの間にか俺が名前さんに縋るような形になっている。 彼女の手のひらが、控えめに俺の肩に触れた。 弱々しい声が返ってくる。 「少しだけ、いいかな」 「いくらでも聞きます」 「本当は…どうしたらいいか分からないの。多々良がいなくなって、もう、何をどうすれば」 彼女の言葉は唐突に途切れた。 一際大きくその背中が震えたかと思うと、痛いくらいに肩を掴まれた。 嗚咽とともに、名前さんは声を上げて泣き出した。 悪いものは全部吐き出してしまえばいい。 彼女はそれほど一人で抱えてきたのだから、といつまでもその背中を撫で続けた。 不意に、懐かしい声が頭を過ぎる。 『へーきへーき、なんとかなるって』 この言葉を口癖としていた十束さんは本当に強い人だった。 俺にはこんな言葉、一生をかけても言えそうにない。 きっと俺だけじゃなく、吠舞羅の誰であろうと、これから先に「なんとかなる」と言えるようなことはない。 俺たちはそれほどの存在を失ってしまったのだ。 吠舞羅は復讐に走るだろう。 俺には止められないし、止まる気もない。 けれど、彼女は十束さんの影を追い続けるだろうから。彼の遺言を誠実に受け止め続けるだろうから。 俺はこの人の何にもなれないけれど、辛い時は抱きしめていようと思ったんだ。 20131222 そうして世界を花で埋められたらいいのに、と願う メモリー・オブ・レッドより |