重い。心底重い。ちくしょう。
口にはしないが内心で悪態を吐いていた。
じじせんせーこと矢野先生に捕まったのが運の尽きで、俺の休み時間はプリント運びという空しい作業に費やされることになった。
もっと他に手頃な奴がいるだろうが。田中とか。
苛々した心情は舌打ちと表情に出ていたようで、すれ違った生徒たちが気まずげに避けていく。
少し前に、余裕のない人間を脱却しようとあれこれ試したことを思い出す。
しょうがない。イラつくもんはイラつくんだから、と割り切って歩いていれば、廊下の先で目が合った奴がひらひらと手を振った。

「あ、殿だー」

名字が毒にも薬にもならない笑みを浮かべて近寄ってくる。
平介とは違ったタイプの、マイペースでゆるい人間。
クラスに大抵一人はいる、どのグループにも属さない放浪者である名字は、女子にしては珍しいタイプだと思っている。
たまにふらりと俺らの輪に立ち寄って、ほどほどに関わってはまた離れていく。
そのたびに何故か平介ではなく俺に菓子をたかるので、名前も顔も覚えた。
その程度の関わり。

「お前最近なんなの、その殿ってやつ」
「平介が、鈴木は殿だって言ってた」
「どんなだよ」
「その唯我独尊っぷりを言ってるんじゃない?」

横に並んだ名字に問えば、さらりとした返答をもらった。
俺が重い荷物に悩まされていようが名字は隣にやって来るだけで、手伝おうかなんて言い出さない。
そういう性格でないことは分かっていたし、女子に頼るというのも癪なのでプリントの山を抱え直した。
腹が立つほど重い。

「似合うと思ったからしばらくは殿と呼ぶのさ」
「鈴木でいいだろ。分かりにくい」
「大丈夫。すぐ飽きるから」
「それもそうか」

本人が言うとおり、名字は飽きっぽい奴だった。
夏には季節に合わない編み物を、それこそ授業中に教師の目を盗んでまでせっせとやるくらいハマっていたらしいが、今は見る影もない。
友好関係も様々で、派手なグループにいたかと思えば真面目なグループに混ざって笑っていたりする。
いつか俺らのところに加わるのにも飽きて、ふらふらどこかへ行ってしまうんじゃないかと思うことがたまにある。
なんたって自分が心地いいと思うことしかしない奴だ。
その可能性は十分にあったが、名字は未だにこうして俺に寄ってきて気まぐれに話をする。

「お前ヒマなのか」
「んん?」
「昼休みに何もすることないとか」
「いや、用事はあったよ。だから話し掛けたんだった」

今思い出したと言いたげに、名字がセーターの袖がかぶる手のひらを叩いてみせる。
手の甲に袖が鬱陶しく被さるその着こなしはあまり好きじゃなかったが、名字は寒がりらしく袖を何度も引っ張る癖があってこうなると知っていたので、仕方ないことだと思った。
その短いスカートの小さなポケットのどこに隠し持っていたのか、四角いものを乗せた手のひらをずいと差し出される。

「はいコレ。殿に献上奉るー」
「お前面白がってるだろ」

テキトーな日本語使ってんじゃねえ、と言えば名字は楽しそうに笑った。
何が面白いのか全く理解できない。
訝しげな視線を名字の顔から手に移して見れば、四角いものはプラスチック容器に入った和菓子だった。
緑の葉が桃色を包んでいて、柔らかそうな桃色の餅の中には甘い餡が詰まっているんだろう。
桜の時期によく見るやつだ。今は秋だが。

「つつんでるやつのが好きって平介に聞いた」
「お前って結構平介と話すのか」
「それなりに」
「こしあんだろうな」
「それ、こだわり?」
「譲れねえ」

名字が堪えきれずといった様子で声を立てて笑う。
楽しそうだ。俺は別に楽しくないが。
何にせよ、食い物かつ甘いものというチョイスである。
くれるというのならもらっておくが、今は手がふさがっているために受け取れない。
名字が手のひらに乗せたまま話すので、そのまま教室へのたりのたりと歩を進めた。
手が痺れてきている感覚には気付かない振りをした。

「よくもまあ、半年以上も季節外れの和菓子見つけてきたな」
「いいところのだよ。結構おいしいんじゃないかな」
「ほう」

平介の菓子で舌が肥えているのは俺もこいつも同じはずだ。
その名字が言うのならば、ある程度は期待してもいいだろう。
じっと視線を下ろした先、桃色につやつやとした桜餅が四角い容器に収まっている。

「なんで桜餅なわけ」
「平介に殿の好きなお菓子を訊いたら、昔食いたいって言ってたなぁって返ってきたから」
「別に何でも食うけどな。で、寄越してきた動機はなんだよ」
「今はお返し期間なんだ」
「お返しねぇ」
「いつも殿にはもらってばかりだからさあ」

また、殿と呼ぶ。
自覚している自身の性格と一致しないからか、普段へらへらとした名字が呼ぶからか、どうにも落ち着かない気分でそれを聞いた。
違和感の正体に考え込んでいると、不意に目の前に伸びてきた手がプリントの山のてっぺんに桜餅を置いた。
そのままどこかへ行こうとするので、思わず呼び止めていた。

「おいばかやめろ、落っこちて潰れたらどうすんだ」
「あ、ごめん」

素直に足を止めた名字は戻ってきて、不安定に揺れていた桜餅を再び手に乗せた。
手持ち無沙汰に四角い箱をくるくると回し、手の空いていない俺を上から下まで眺めていた。

「ポケットに突っ込んでいい?」
「どっちにしろ潰れるだろ。教室まで付き合うか、それか運ぶの手伝え」
「…図書室に行くつもりだったのになぁ。まぁいいや」

無茶苦茶な意見を却下すると、名字は隣をのたりのたり歩き出した。
意地でも手伝う気はないらしい。
そういえば、飽きっぽい名字が唯一日常的に続けているのが読書だったなと思い出す。
どの人の集まりにも寄らず、一人静かに席でページを繰る名字をたまに見たことがある。
普段の軽い様子からは想像できない穏やかな目をしながら名字が読んでいた、あの本のタイトルは何だったか。
どうにも思い出せない。

「お返し期間って何だ。さっき言ってたやつ」
「思い返せば、平介も佐藤も私に何かにつけて食べ物をくれるから。たまには逆もいいでしょ」
「あいつらにもやったのか」
「うん。喜んでたよ。佐藤が、人並みに感謝できる子だったんだね!って」
「ふうん」

俺だけじゃないのか、と訳の分からない感情が浮かんだ。
またもや顔を出した違和感に居心地が悪く、曖昧な返事をしてしまった。
俺は何を期待していたんだと馬鹿らしくなったところで、不意打ちの一言が耳を打つ。

「でも桜餅は鈴木にだけだよ」
「…殿呼びは飽きたのか」
「あ。うん、もう終わり」

俺に指摘されるまで気付かなかったらしく、名字はあっさりと頷いた。
その表情に不思議と満足感を覚えて、曲げていた口元が緩む。
笑うとまではいかないが、気持ちの悪いもやもやした感情は霧散していた。

「次は何がいいかなー」
「お返し期間続行中なのかよ」
「結構楽しいから」
「へえ」
「今度はどら焼きにしよう。おいしいお店が浅草にあるんだって」
「あさくさ」
「うん」

そんなところまで行くのか、とぼんやり地名を繰り返した。
馴染みの土地で美味い店を探す俺らとは少し違う。
たまには場所を変えるのも悪くないんじゃないか。
何かが内心で囁いて、次の瞬間には思わぬ発言をしていた。

「じゃあみんなで行くか、浅草」
「…みんなって?」
「俺と、お前と、平介に佐藤」
「それじゃあお返しにならないよね?」
「いいんだよ。きっとあいつら喜んでついてくるぞ」
「そうか。みんなで。その発想はなかったなぁ」

新しい発見をしたような、何か楽しみを見つけたような。
目を細める名字の表情はまた俺を優越感に浸らせて、奇妙な心持ちになる。
ずっと何かに飽きずにいて、いつもこういう顔をしていたらいいのに。
そんな風に思った。
ようやくたどり着いた教室の教卓にプリントを下ろせば、俺たちに気付いたらしい佐藤が平介の横で手を振っている。
名字の手から桜餅を取り上げた。

「それで、茶は」
「は?」
「甘いものは寄越してくるくせに茶は用意してねえのかよ」
「やっぱり殿だ!」

俺の一言に何故か楽しそうに声を上げて、何事かを平介に報告しに走っていった後ろ姿を見送る。
入れ替わりにやって来た佐藤がそれうまそうだね、と羨ましそうに言ってきたので、「絶対にやらないからな」と返しておいた。

20131019
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