一郎くんから無視されている。気のせいではなく、確実に。 潤ちゃんと一緒に学校帰りにボヌールのシフトに入った時からバイトも終盤に差し掛かった今の今まで、一郎くんが私と目も合わせないのだ。 潤ちゃんには相変わらずのスキンシップなのに。 まあ、思い当たらない節がないわけでもない。 自分で言うのも何だけれど、それなりに真面目な私はバイト中に潤ちゃん一郎くんコンビのおふざけに付き合うこともしない。 一郎くんを起こす係は潤ちゃんだからと、寝ている一郎くんに構うこともなくお菓子を与えることもなく。 黙々と仕事をこなす姿勢を進藤さんは認めてくれているけれど、非社交的でバイト仲間との交流が少ないのも事実だ。 それでも、一郎くんからは私のことを構ってくれるし、それなりに仲がいいと思っていた。 潤ちゃん相手ほどではないけれど、撫でてくれたり抱きついてきたり。 それが照れ臭くて拒絶しても一郎くんはお構いなしだから、どれだけ愛想がなくても平気だと思っていたのに。 「はあ…」 「名前ちゃん、大丈夫?」 レジ打ちをしていた潤ちゃんが振り返って、こちらの様子を窺ってくる。 露骨な無視にへこんでいる私の心情を察してくれたらしく、心配そうにしている。 その様子が子犬のように見えて大丈夫だよ、と思わず潤ちゃんの頭を撫でた。 次に出すケーキを二人で用意していたら、私の肩に触れるものがあったので顔を上げる。 どうやら通りかかった一郎くんの肘とぶつかってしまったようだ。 「あ、ごめん…」 「潤、八番テーブルにガトーショコラだって」 「う、うん。行ってくる…」 反射的に謝った私には見向きもせず、潤ちゃんに向けて一郎くんが話す。 潤ちゃんは私たちの様子を気にしながらも、奥にあるテーブルへケーキを運んでいった。 厨房には進藤さんがいるものの、ささやかながら二人きりという状況。 一郎くんとの会話もなく、私は近くにあったグラスを意味もなく拭いた。 「すいませーん、注文お願いします」 「ハイ」 私が答えるより早く、一郎くんがテーブルに近付いていった。 オーダーの最中にやはり寝てしまった一郎くんは戻ってきた潤ちゃんに起こされて、そのやり取りにお客さんも笑っていて。 笑顔と幸せが溢れているこの店の中で、私一人が取り残されたようで泣きそうだった。 私は何かしてしまったのかな。 うつむいて、グラスを磨く手も止まっていた。 そんな私を見かねてか、厨房から出てきた進藤さんは休憩してこいと一言。 控え室に行って、頭を冷やしてこよう。 こんな役立たずじゃあ、バイト失格だ。 ▽△ 「おい一郎」 「…なんスか」 あの子がいなくて、代わりにぽつんと置き去りにされたグラスを手に取った。 丁寧に磨かれたそれには曇り一つない。すぐに寝る俺とは似ても似つかない仕事ぶり。 進藤さんは常に不機嫌そうにしている人だけれど、今日の眉間のシワは一段と深い。 俺と名前のことで苛ついているんだろう。 「あいつ鬱陶しいからさっさと声かけてこい」 「そんなの俺の勝手じゃないですか」 「…喧嘩でもしたのか」 「イエ。俺がしたくて無視してるだけですけど」 「なんで、そんなこと」 「いいじゃないですか。それとも名前に気でもあるんですか?」 目に見えてイラッとしたらしい進藤さんにグーで殴られた。 いつものこととはいえ痛い。 面倒だからお前も休憩して解決してこい、と裏手に押しやられてしまった。 進藤さんと潤を二人きりにするの、癪なのに。 「…控え室かな」 適当に予測をしてのろのろと歩き出す。 進藤さんは何一つ分かっていない。 たとえば、個人的な感情は意地でも表に出さないよう、健気に気を張るあの子の可愛さ。 たとえば、今日に限って仕事の出来が冴えないあの子のことをほんの少しでも気に掛ける進藤さんがいて、俺がもやもやすること。 いじめて可愛がる、なんて潤を含めた他の子にはしようとも思わないのに、名前がそわそわしているのを見たらもっといじめたくなって。 調子に乗りすぎたかな、とあまり反省しないまま控え室の扉を開ける。 こちらに背を向けている名前は俺に気がついていないようだ。 「(…俺のロッカーの前にいる?)」 よくよく見れば、名前はロッカーの前に立って、腕に抱いたものに顔を押しつけるようにしている。 部屋に入らずじっと見ていると、小さな呟きが聞こえてきた。 「大丈夫大丈夫、嫌われてない嫌われてない…」 ずっ、と涙を堪える音まで聞こえてきたので、俺はわざと強く扉を閉めた。 名前の肩がびくっと震えて、けれどすぐに顔を上げないのは泣いているからだろうか。 「…名前サン?」 こそっと名前を呼べば、泣きはらした目尻が分からなくなるくらい真っ赤な顔をして名前が振り返った。 罰が悪そうに腕に抱えていたのは、俺や名前が着ているものと同じエプロンだ。 やることが可愛いなぁ、と思いながら口では別のことを言う。 「それ、俺の予備のエプロン?」 「……」 「…鼻水つけないでね」 最後の意地悪のつもりで付け加えたら、名前の頬がかあっと赤みを増した。 申し訳ない気持ちと羞恥心が複雑に混ざり合ってるのがよく分かる。 名前は目線を合わせないまま、やっとの様子で口を開いた。 「ご、ごめんなさい。洗って返すから」 「いーよ、別に」 「そんなこと、言わないでよ…気を悪くさせたなら何回でも謝る」 すっかり俺に嫌われたと思っているらしい。 名前はびくびくとして、これ以上俺の不興を買うまいと必死だ。 あんな風に無視したんだから当然か。 ひどい言い方かもしれないけれど、泣くほどに俺が好きな名前は可愛いと思う。 自覚していないんだから尚更だ。 ふう、とため息を吐くと彼女はあからさまに怯えた。 そんなだから俺がいじめたくなるんじゃん。 「謝んなくていいよ。怒ってるわけじゃないし」 「い、一郎くん」 「意地を張ってるだけで、本当は寂しくて悲しいんでしょ?俺が相手にしないからさ」 ぐっと言葉に詰まった名前は暫しの間を置いて、小さく頷いた。 その瞳にまたじわじわと涙が浮かんでくるから、できるだけ優しい声を出して両腕を広げた。 「そんなので我慢してないで、直接俺のところにおいでよ」 じゃないと持ち場に帰っちゃうよ。 付け加えると名前は何度も息を吸ったり吐いたりしたあと、こちらへやってきた。 おずおずと抱きついてきた名前は普段の我慢を全部なしにする勢いで俺の服をぎゅうぎゅう握ってくる。子供みたいだ。 涙につられて熱い吐息が腕の中で震えて、愛しいってこんな気持ちだろうかと考える。 その頭を軽く撫でると、くぐもった声が聞こえてきた。 「もう無視しないで、話してくれますか」 「うーん、どうだろう」 「……」 「ごめんウソ」 「一郎くんなんて、」 「嫌いになった?」 「…ならない、けど」 そう。この程度で傷付きはしても嫌うことなんてできないくせに。 しょうがない子だ、と思ったけれど俺も大概くだらない奴だ。 素直にこの女の子を欲しがることもできないなんて。 覆い被さるようにして抱きしめる力を強めたら、腕の中からひゃっ、と小さな悲鳴が聞こえてきた。 欲に負けて抱きついてきたくせに、何を今更。 可笑しくてちょっと笑みを浮かべたら、こちらを見上げた彼女の視線とぶつかる。 涙の余韻を感じさせる熱っぽい瞳で、俺の笑顔に安心したように表情を緩めた、から。 なんだかまた意地悪してやりたくなって、その小さい耳に軽く歯を立てた。 このままサボっちゃおうよ。 彼女からすれば悪魔みたいな囁きを落とす。 真面目の殻なんて粉々になるくらい、俺のことだけ考えてしまうようになればいいんだ。 20131004 |