じわり、汗が浮かんだ。 自分の混乱した気持ちが如実に表れているようで、内心の焦りは増していく。 ベッドの上だった。 細身とはいえ、彼は数年前まで弓道をやっていた身だ。 硬そうな腕が私の両頬の脇に置かれている。 私がどうにかして退かせられるようには思えない。 さまよわせていた視線を頭上に再び持っていくと、そこには変わらず犬飼くんがいて、静かにこちらを見下ろしていた。 私と違って焦っている様子はない。 「あ、のさ」 笑えるくらい声が震えてしまった。 いっそ笑ってほしかった。 いつもみたいに、バカだなって笑い飛ばしてくれれば私の安心できる空気が戻ってきたかもしれないのに。 犬飼くんの金色の瞳はすうっと冷たくて、私が安心する余地なんてなかった。 「なんで」 やんわりとベッドに向けて身体を押されて、追うように彼が身を寄せてきた理由なんて、訊かなくてもわかる。 それでも今の状況に一瞬も気が抜けない私は、こんな質問で気を紛らわすことしかできない。 はあ、と落ちてきたため息は心底呆れているらしく、わずかに眉を寄せた表情は私がよく知る普段の彼を思い起こさせる。 今にも冗談だと言って離れていきそうなのに、首を傾げただけで犬飼くんは言った。 「そんなことも、わかんねーのか」 優しく撫でるというよりは確かめるような手つきで、彼の掌が頬にやわやわと触れた。 その感触にきゅっと目をつむると、笑い声に近い吐息を感じた。 額に押し当てられた唇は少し震えていて、彼らしくないなと思う。 頬から首筋へと下りた指先に思わず身をよじると、犬飼くんは動きを止めた。 そのまま探るように見つめてくる視線に耐えきれず、私はその胸をそっと押し返した。 「い、いや、だ」 私の声は二人きりの部屋にやけにはっきりと響いて、居心地の悪さが増した。 犬飼くんは何でもないような顔をしていたけれど、ほんの一瞬、気に入らないと言いたげに目を細めた。 頬の脇に置かれていた腕の力が抜けて、何も触れる当てがなくなった掌がシーツを握った。 「そっか。じゃ、やめるわ」 上半身を起こして私と距離を取った犬飼くんの口調はあっさりとしていた。 それまでの雰囲気をごまかすようにぐしゃぐしゃと私の頭を撫でて、離れていこうとする。 自分が言い出したことなのに落ち込んだ私を見てか、表情を穏やかなものに変えて彼が言う。 「心配すんな。お前みたいな色気ない女に拒否られてまでどうこうするほど、飢えてねーよ」 ひどい言い様だって私を気遣ってのものだと、さすがに分かってしまった。 だって彼の声がこんなにも優しい。 ひらりと遠ざかった手のひらを逃がさないよう握ったのは無意識に近かった。 さっきの私の態度とは矛盾している。 現に怪訝そうな顔をした犬飼くんは少し低い声音で言った。 「…どうしたよ?」 「えっと」 「謝るのはナシな。余計惨めになるからさ」 先手を打たれて少し恨めしい気持ちになった。 確かに、ここで単に謝罪をするのは私の罪悪感を和らげるためだけの行為だと思う。 表情には出さなくても、きっともどかしい思いをして傷付いた彼に言うべきことなんて分からない。 情けないなあ、声に出したい気持ちを抑える。 「泣きそうな顔、不細工」 不意にぎゅっと頬をつままれて、私は何度か目を瞬いた。 見上げた先の犬飼くんはにやにやと意地悪い笑みを浮かべ、まるで私の葛藤を嘲笑うかのように振る舞う。 お前に気を遣われるほどじゃない。 そう言われている気がした。 「なんだよ、ふられて泣きたいのはこっちだっつうの」 「ごめん、じゃなくて」 「あー、謝ったな?やめろっつったのに鳥頭かよ」 散々言いながら、私が握った手のひらは一度ほどかれて、犬飼くんが握り直した。 指が絡む心地に、私は安心をする。 彼の友達として、ふざけあう関係は長かった。 恋人になってからも友人の延長線のような日々を過ごし、じゃれてくる彼の手のひらを、その気持ちを真剣に捉えていなかったことを反省した。 ベッドに押し倒されたとき、私は驚くことしかできなかった。 犬飼くんの気持ちに正面から向き合う覚悟がなかったのだ。 「ごめんね」 「だからお前さぁ、それやめろって」 「でも、悪いことしたから」 「あっそ」 「犬飼くんのこと、好きなの。大好きなんだよ」 私が素直に感情を吐露したのを聞いて、何故か彼は不機嫌な様子になった。 今まで溜め込んでいた鬱憤が顔を覗かせたらしく、忌々しそうに舌を出す。 「機嫌取りの愛情なんていらねーよ」 「本当だよ」 「ばか、そんなの俺の方が」 俺の方がずっと、さぁ。 手、出したいとか。 意識されてなさそうだとか。 何度だって考えてたのに、お前わかってなかったろ。 それは拗ねた子どもの愚痴に似ていた。 だんだん微笑ましくなってきて笑いながら話を聞く私に反して、だんだん言葉尻が強くなって不満たらたらな様子の犬飼くんがいた。 「はあーあ」 わざとらしい大きなため息だった。 いろいろ言い終えてから、彼は私を引っ張り起こして抱きしめた。 肩にあごを乗せられる感触に、きれいな緑の髪を撫でる。 小さく呻いた姿は何か葛藤があるらしく、ちょっと笑ってしまった。 「でも好きなんだよ。何されたってお前が好きだ」 一瞬、訪れる静寂。 敢えて言葉を返さないでいると、犬飼くんが肩を軽く叩いてきた。 言わないけれど、はじめて素直にしてみせた自分の言動が恥ずかしく、不安になるらしい。 「…呆れるか?」 すぐそばで聞こえたそれに緩く頭を振ると、犬飼くんも一緒にゆらゆら揺れた。 いらないことを山ほど言った気がする、と、ぼやく彼に感じる愛おしさがある。 背中をさすってあげていたら、「油断してると食っちまうぞ」と悔しそうに言われ、「いいよ」と言っておいた。 少し間を置いてから、馬鹿じゃん、そう弱々しく悪態を吐いた彼はもしかすると私より臆病なのかもしれない。 20130705 |