ショーケースに並んだケーキの数々を見て気持ちが沈むようになったのはいつからだろう。 初めてこのお店に訪れた時は、確かに夢のような心地でうきうきと買って帰るケーキを選んでいたはずなのだけれど。 今ではその向こうに掴めない何かを探るように視線を向けている。 肩にかけていた学生鞄がまた重みを増した気がした。 「今日のケーキ、決まった?」 穏やかな声音が落ちてきて、意識もしていないのに顔を上げてしまった。 頬杖をついて柔和な笑みを浮かべる店員の佐藤さんを見つめてから、後悔した。 あの日、この人のことを知らなければ。 優しい表情を目にする度にそんなことを考えてしまう癖が、ぐずぐずと私に染みついている。 鞄の取っ手をぎゅっと握り直して、何とか出した声は情けなく震えていた気がした。 「…もう少しだけ、悩んでもいいですか?」 「ああ、ゴメン。急かしてるわけじゃないから、ゆっくり見てて。僕もやることがあるし」 そう言って、彼は手元の紙に目を通している。 事務的な書類に見えないそれは、よく見れば裏に新メニュー案と書かれている。 その文字に心が弾んだのは本当だ。 小さい頃から、ケーキが好きだった。 甘くてふわふわで、憧れと可愛さが詰まった食べ物。 きっと他のお店では今もそう思えるだろうに、私が通うのはこの洋菓子店ばかりだ。 最近はアルバイトの従業員が増えたらしく、より賑やかになった店内で変わらず微笑む彼にいだく思いにも変化はない。 わずかばかりの痛みと焦燥が増したくらいだ。 「きみは、いつも一生懸命にケーキを選ぶね」 「え…」 「きみほど店頭で悩んでいく人を僕は知らないよ。まるで生涯の伴侶を選ぶみたいだね」 「私が、ですか」 「もしかして、変に聞こえる?でも嬉しいよ、この店のケーキに真摯に向き合ってくれて」 すっと開かれた瞳は案外細く、けれど大切な物を語るための優しさに満ちていた。 見た目だけでは分からないような表情をさまざまに持ち合わせる彼はどんな人なのか、いつも考える。 常に微笑んでいるような彼だからこそ、その人柄は優しいだけではないような気がしていた。 アルバイトの子を叱る様子を見ていて、その予想は確信になったけれど。 私よりずっと大人の佐藤さんは、たかが女子高生の私に計り知れない人だろうと、寂しさが押し寄せる。 「学生さんがこんな頻度で買いにくるのも珍しいなって思うんだ。結構来てるよね?」 「月に二回は、来たいなって思うんです」 「お財布に厳しくない?」 「それは…バイトをして何とか」 「入れ込んでくれてるんだ?ありがとう」 その冗談めかした言葉に素直にうなずけたらいいのに。 ここのケーキが好きなのも本当だ。 けれど、いつからか目的がすり替わっている気がして、たまに後ろめたくなる。 私は何が欲しくてこの店に来ているの? 目の前の笑顔が答えだと分かっていて、彼のきれいな髪色によく似たケーキを指差した。 「…レモンタルトください」 「はい。お持ち帰りの時間はどれくらいでしょう?」 「五分です」 「本当に近所だね」 くすくすと笑い声をこぼしながら、佐藤さんはケーキを箱に詰める用意を始める。 月に二回ほど、あっという間の時間。 きっと私ばかりで、彼には何の感情も残らない。 それでも彼の手からケーキを受け取る瞬間、どんな時より一番に鼓動が早まるのは本当だから。 丁寧に箱を扱う手がふいに止まり、財布を取り出していた私に声がかけられた。 「なんだか、最近のきみは元気がないみたいだ」 いつもの笑顔に、困った子どもを見るような色を混ぜ込んで。 厨房の方へ向かった佐藤さんは、小さなお皿を手に戻ってきた。 ロールケーキを一つ、箱の中のレモンタルトの横に添える。 彼の行為に思わず身を乗り出すと、しー、と指を口元に当てて囁かれた。 「これ食べて、元気出して。新作の試作品だから、内緒だよ」 こんなこと、特別でも何でもない。 そこそこ常連だからオマケしてもらっただけ。 どうしようもなく浮かれた気持ちとは裏腹に、私は佐藤さんを見つめ返すことができないまま、小さくお辞儀をした。 こみ上げる嬉しさを押さえ込むように箱を抱えて店を出ようとすると、「また来月においで」なんて声を背中に聞いた。 彼が好きなのに気遣いに甘んじることができないのは、不毛な恋だと知っているからだ。 「ありがとう、ございました」 まるで泣きそうな声だと、悟られなかっただろうか。 佐藤さんの笑顔が時々、とても薄っぺらく見えてしまう理由を知らないまま、私は自分の恋を胸の奥へ閉じ込めてしまうのだろう。 おいしいケーキを笑って食べながら泣くのは、これで最後だ。 20130202 優しくされると逃げたくなる (さとう、って名前なのにね) |