「ふう、疲れた」


ため息と一緒に人目もはばからず、漏らしてしまった言葉。
けれど大丈夫、聞いている人なんていないのだ。
生徒会役員会にきっちり出席して、頼まれた書類を作り、担当の先生に提出を済ませたあとの時間帯では、廊下に人影も見当たらない。
放課後の夕焼けにも夜が近付いてくるころ、校内に残っている生徒は運動部よりは少数派の文化部員くらいなもの。
賑やかな喧騒は風に紛れてとおく、校庭からわずかに聞こえるくらいだ。
普段を思い返せば、しんとした学校内は少し寂しく思えるかもしれない。
ただ、誰の目を気にすることもなく知らず知らず張っていた気持ちを緩められるというのは、なんだか特別な気がする。


「今日も無事一日が終わった、と」


誰に報告するわけでもない言葉が、口から小さくこぼれ出た。
急に照れくさくなって辺りを見渡しても、やはり静寂は保たれている。
つい、本日幾度目かのため息を吐いた。
とはいえ、今のは安堵と達成感に満ちているものだったけれど。
自分の教室に寄り、大して重くない鞄を手にして廊下をまた歩く。
今回も塚原くんは忙しそうだったなぁ、と不意に思い返した。
副会長の肩書きを持つ彼は生徒会長本人より余程多くの仕事をしていて、今日の仕事だって私は塚原くんの手伝いをしたに過ぎない。
きっと彼は想像以上に多忙で、それでいて真面目なのだろう。
うっかり手を貸すことすら躊躇われるときも多いけれど、それでも何か役に立てたらいいと思う。
私は役職名すら曖昧だけれど、彼と同じ役員なのだから。
そういえば、前にも塚原くんを手伝っていた日々の折に、悠太くんにただ何も言わず撫でられたことがある。
その時節柄、私は彼の手のひらを「頑張って」とか「お疲れ様」といった風に都合良く解釈してしまった。
けれど、実際。
悠太くんは言葉もなく優しげな目をするから、そんな彼に行動の真意など確かめられるはずもない。
その柔らかい気遣いを無粋な疑問で濁してしまうのは、きっと正しくない。


「…あれ」


塚原くんの回想から、連鎖的に彼の幼なじみである悠太くんへと意識が移り、いつの間にか私は昇降口を通り過ぎたところまで歩いてきていた。
今まさに足を止めた場所を自覚した途端、ぐっと息が詰まる。
他のどの教室の扉とも違う、学校という場では異質にすら思える襖が目の前に佇んでいる。
茶道部が活動をしている茶室だ。
とはいっても、さすがに暗くなってきた時間のせいで物音ひとつすら聞こえてこない。
茶道部の人たちもとっくに帰路についている頃だろう。
悠太くんは、今日も松岡くんと一緒に凛と背筋を伸ばしていたんだろうか。
体験入部に誘われたことはあっても、あの程よく緊張感と静寂に包まれた空間に足を踏み入れるのは気が引けて、ここに入ったことはなかった。
だから彼の雄姿は聞いた話からの想像に過ぎない。


「着物姿、格好良いんだろうな」


見なくたって予想はついてしまう。
こみ上げてくる笑みを隠しもせず、私はそっと襖に触れた。
ここに彼の平穏がある。
偶然の機会でも、それに触れられたことはやはり嬉しい。
さっきまで悠太くんが居た空間を見てみたい、なんて気持ちさえ浮かんできた。
こんなことを考えている暇があるなら、彼がいる時間帯に直接訪れればいい話なのだけれど、意気地のない私ではそうもいかない。
ほんの少しだけ、ちらっと覗くだけ、そう言い聞かせて伸ばした私の指先が、もう一度襖に触れることはなかった。
私が開けるまでもなく、誰かがそれを開けたのだ。


「…名前さん?」


ぽつりと落ちてきた声が私を呼んだ。
顔を上げれば、わずかに驚いたような表情の悠太くんが立っていた。
言葉にならない恥ずかしさが私に押し寄せて、それまであれこれと考えていたものが全てふっ飛んでしまった。
どうしてまだここに、帰っているはずなのに居るんだろう。
その疑問を差し置いて、途切れ途切れの思考がつぶやく。
着物姿の悠太くん、格好良い。
混乱していようが私は自分に正直だった。情けない。


「まだ帰ってなかったんだ」

「う、うん。生徒会の集まりがあったの」

「ああ、そういえば要がそんなことを言っていたような」

「それで遅くなっちゃって、ふらふらしていたらここに…悠太くんは?」

「今日の部活、指導をしてくれている先生が用事で遅れてきたんだ。活動時間が繰り下がって、たまたま片付けで居残ってた」

「…そうなんだ」


話題を膨らませることもできないまま、短い沈黙が流れた。
いくらぼんやりしていたといっても、目的も下心もなく茶室みたいな場所にたどり着くはずがない。
筋道のない言い訳にさえ、悠太くんは追及をしないでいてくれる。
そういった全てが、なんだか申し訳なくて。
このまま立ち去ってしまおうか、なんて逃げの考えが浮かんだところで肩をとんとんと叩かれる感触。
思わず、また下を向いていた顔を上げ直した。


「ごめん、なに?」

「名前さん、疲れてない?」

「…どうして」

「目の下が、すこし」


瞳に近い場所をこするというより指先で軽く撫でてくる手つきに、少しだけ身体が固くなった。
仕事上がりで気を抜いていたせいか、寝不足をあっさり見抜かれてしまった。
先ほどとはまた種類の違う気恥ずかしさに見舞われていると、ふっと影が落ちてきた。
悠太くんとの距離が近い。


「あの、」

「名前さん、お腹空いてないかな。いいものがあるんだけれど」


ひとりでに私の緊張が高まる中、悠太くんが着物の袂から何かを取り出すのが分かった。
懐紙で作られた小さな袋を見つめ、呆けたような声を出してしまう。


「こんぺい糖?」

「今日の和菓子。余ったから少しもらってたんだ」

「へえ…」

「くち、あけて」


桃色を一粒、指先でつまんだ悠太くんが促すように声を掛ける。
照れくさいという問題よりなにより、私が彼の言葉を断れるはずもなくて。
甘い欠片をころりと押し込んだ指が、軽く唇に触れてから離れる。
この持て余す感情のように、口に含んだ甘さをゆっくり転がした。
何か言葉を返す前に、記憶と変わらず彼の手のひらが頭を撫でてくれる。


「疲れたときには、甘いものがいいんだよ。名前さん」


その言葉に何度もうなずいてからありがとう、とこぼせば頭上の彼が口元を柔らかく緩めた。





名前さんが来てくれたんだから一緒に帰ろうか、と着物の裾を翻した悠太くんは笑みを残して私の髪から手を離した。


20120305
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