「ああ、お止めください。飛び込みなどと、片付けるほうの身にもなってくださいまし」

片腕を強く後ろに引かれ、私の体はホームの端でぴたりと止まった。
わずか数センチ先を、電車がとてつもないスピードで通過していく。
背中にじわりと冷や汗を感じたのもつかの間、私は生死の実感を味わうより早く、後方へ引っ張られて無様に転んだ。
高いヒールのパンプスが脱げて、床に転がる。
尻餅をついて痛い。足首も捻ったかもしれない。
さらには人間離れした力で引っ張られた腕もズキズキと痛んだ。
自分の現状がよく把握できないでいると、コツ、と磨き上げられた革靴が目の前に迫った。

「いくらお客様といえども、それはいけません。電車賃を大幅に上回る罪でございます」

黒ずくめの男が立っている。
いや、見かけは派手だが制帽や服の細部を見れば、彼の役職は車掌といったところだろう。
ただし、私は今までにこのように奇抜な車掌を見たことがない。
呆然と見上げていると、彼は少し離れたところに落ちていた私のパンプスを拾い上げ、やはり磨き上げられた床にコトリと置いた。

「わたくしはノボリ。サブウェイマスターでございます。見たところ、あなた様は挑戦者ではないようです。どちらからお越しでしょうか?」

彼の言葉の大半は耳をすり抜けていく。
のぼり。そう、確かに私は駅のホームにいた。
しかし私は下りの電車を待っていて、路線は地下鉄ではなかった。
そうして、自らの人生を終わらせようと間違いなく線路に向かって飛び込んだはずなのだ。
それなのに見慣れた都会のビル群も、有象無象の乗客も忽然と姿を消して、今は近代的な地下鉄のホームで黒ずくめの車掌と二人きり、対峙している。

「もし、お客様」

男が発した言葉に、私はびくりとして顔を上げた。
能面のような無表情だ。
途端に、線路に飛び込む直前の鬱々とした感情を思い出す。
死にたい。ここからいなくなりたい。何もかも忘れてしまいたい。
それなのにさっき感じた、体が痺れるような電車の風圧を思うと体が震えてしまう。
あんなものに飛び込むつもりだったのか。
その苦しみはどれほどのものか。
考えただけで恐ろしくなってくる。

「あなた様の瞳はひどく揺れてらっしゃる。まるで虐待を受けたポケモンのようですね」

自分の体を掻き抱く私を見下ろし、男は静かな声で言った。
ポケモン?何を言っているのだ、この男は。
自分が何に例えられたのか、とっさには分からず、私はそんなものはいないだろうと声を張った。
すると男は少し目を細めてみせて、膝を折った。
私のことをじいっと覗き込むと、彼はこう言った。

「この世界、弱者は生き残れないのです。隙を見せれば負けるだけ。それならば己の能力を高め、特技を活かし、自分のフィールドで戦うことで勝たなければいけません。それはあなた様の世界でも同じなのでは?」

男の言うことはまるで異国の言葉のようだった。
けれども、時間をかけて反芻してみれば、彼の言わんとしていることはなんとなく理解できた。
私はよろよろと立ち上がり、彼が拾ってきたパンプスを履き直す。
高いヒールだが仕事用にと履き潰したそれは私の足に一体化するように馴染み、もう転ぶことはなかった。
その途端、ホームに電車が滑り込んできた。
地下鉄風がごうっと吹くと、彼のコートと私の髪が揺れた。

「…失敬。一車掌が出過ぎた発言を致しました。どうぞお帰りください。迷子のお客様。あなた様の帰る場所はすぐそこなのですから」

ぷしゅう、と電車のドアが音を立てて開く。
そのドアは私が乗り込むまで発車せずにずっと待っているような、そんな懐かしさを感じた。
鞄を手に足を踏み出すと、車内は明るく心地よい温度だった。
振り返った先では、車掌の彼が手を組んでホームに立っている。
ありがとう。
なぜかそう告げなければいけない気がして、私は口を動かした。
すると、真一文字だった彼の口がほんのわずかに持ち上がった。

「ご武運を」

彼が深々と礼をしたと同時に、ドアは閉まり地下鉄は発車する。
最初はゆっくりと、それからだんだんと速度を上げる中で、私はいつまでも窓の部分に手のひらを当てていた。
これから自分のいた現実に立ち返ったとしても、私はこの瞬間を、ああ変な夢だったとは笑い飛ばせない気がするのだ。
あんなふうに私に言葉をくれたのは彼がはじめてだったから。

「ノボリ?どうしたの、そんなところに棒立ちで」
「ええ、少しお客様とお話を」
「まさか。今日のシングルトレインの運行はとっくの前に終わったよ」
「クダリ」
「なあに」
「先ほどわたくしがお会いした方は、ポケモンを知らないようでした」
「うっそだぁ。この世界にそんなひと、いる?」
「ええ。ですから、この世界のひとではなかったのかもしれません」
「…ノボリ、ジョーダンきつい」
「信じてもらわなくて結構ですよ」

20161006
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