ひどい雨が降っていた。
薄暗い窓から視線を戻すと、白くて清潔なシーツとわずかな薬品の香りが意識を占める。
雨音を背に、横たわる彼の姿をぼんやりと捉えた。

そういえば、この人とはじめて会った時もこんな雨の日だった。
神様の機嫌を損ねたんじゃないかってくらい、容赦無く叩きつける雨。
この街に収容される黄昏種と同様に、何かしらの事情でエルガストルムに住まう健常者は多い。
私は家族の借金からこの身を売り飛ばされ、生まれた地を離れてもなお金貸しに追われる生活をしていた。
その日は金貸しの虫の居所が悪かったらしく、普段以上にひどく痛めつけられて路地に放られていたのだ。
指先さえ動かせないくらい、体中が痛んだ。
視界を遮る雨粒のなか、様々な人の脚が私を避けて歩いて行ったが、一人だけは違った。
スーツを着こなした足元。
ふと見上げた先には黒い猟犬のような男が立っていた。
知らなかったのだ。
黄昏種という存在が、あんなに優しく気まぐれに、私という見ず知らずの健常者を拾うなんて。


「ニコ、起きてる?」

私が発した声はしんとした病室に響いて、シーツから覗く傷だらけの腕に触れた。
うっすらと目を開ける彼は、決して寝起きという様子ではない。

「…やっぱり起きてた」

私がテオ医院を訪ね、先生と会話を交わし、ベッドそばの椅子に腰掛ける間まで。
きっと彼の意識は冴えたままであったに違いない。
こちらを窺い見る視線に、私は答えた。

「なんでわかったかって?ニコはね、熟睡するともう少し眉間のシワがましになって、かわいくなるよ」

後半の言葉が気に入らなかったのか、伸びてきた手のひらが私の額を軽く突いた。
もしくは、お前の方こそ眉間にシワがあるぞと言いたかったのかもしれない。
しょうがないじゃない。
テオ医院にいる時の彼は、いつだって全身ぼろぼろだ。

「テオ先生が、ここはホテルじゃないぞって言ってた」

皮肉をこめて、要はこの病室を頻繁に借りすぎだと、先ほど言われてしまった。
そこの馬鹿にも伝えておけ、とも。
私だって、こんな状態の彼を見舞いに来るのは嫌です。
そう返した私を見つめ、テオ先生は面倒な奴らめ、とぼやいた。

「怪我、しすぎなんだよ」

何度目かの小言を言う。
ニコラスはまたか、なんて顔もせずに私の話す言葉から目を逸らさずにいた。
怪我、などという言葉で片付けてしまうのもためらわれる。
たとえ指先さえ動かせない状態でも、無理やりに動くのが彼だった。
何度だって、今回こそ、彼という存在があっけなく失われてしまうのではとひどく動揺する。
報せを聞いて、雨の中を走ってきて、傘が意味をなくすくらいには、私の体は濡れて冷えている。
私とニコラスを面倒だと言い放ったテオ先生が押し付けてきたタオルが有難い。

「ねえ、ニコ」

奥の部屋からは物音がしない。
もう深夜だ。
ニナちゃんはとっくに寝ているだろうし、テオ先生も眠りの淵にあると信じたい。
ここから先を聞くのが、私の言葉を読み取るのが彼だけでありますように。

「私の心臓をあげる」

冗談ではなかった。
比喩でもなかった。
出来ることならそうしたい、と思っていた。
いらないと言われればそれまでだが、私は常々そう思っていた。
生きる意味をくれた人が、日々あたりまえのように傷付いて、死ぬかもしれないなんて。
大切なものをすべて、この街の外へ置いてきたから知らなかった。
彼に拾われたあの日から、この人がいつか死んでしまうのだと考えるのが怖くなった。

「だから、長生きしてよ」

こんな身勝手なことを黄昏種の身である彼に言うのは酷だろうか。
馬鹿馬鹿しいと、笑われてしまうだろうか。

「健常者のは、いらない?」

それとも、今まで憐れみでそばに置いていたのを、いよいよ突き放されてしまうだろうか。
黄昏種と健常者の違いを突きつけられて、調子に乗るなと。
お前なんか嫌いだと。
黄昏種にそう叫ばれることも、この街では少なからず経験した。
そのたび、どうしたって私は彼との埋まらない距離を、生まれついて持つものの差を、嫌になるくらい実感してきた。
周囲が彼を形容する言葉なんてどうでもよくて、私はただ、あなたが愛おしい。

いつの間にか握りしめていた手のひらが、震えてくるころ。
首にかけていたタオルを引かれて、ベッドの淵に手をつく。
そして少しかさついた唇が、無骨な彼のありったけの優しさを乗せて、私のひたいに触れた。
ほとんどされたことのない仕草に、つい顔を上げる。
私の視界に飛び込んできたのは、痛む体で彼が指し示す手話だ。

『もう、もらってる』

「そんな…わけない」

彼は、自分の立場をよくわかっている人だから。
夢見心地に、他より長く生きることができるという過信はしないはずだ。
どういう意味か考えあぐねていると、手話はこう示す。

『お前の気持ちはどこにある?』

彼が私を見捨てず、気まぐれに拾った日から、そんなことを聞かれたことは一度もなかった。
私も、言うことはしなかった。
だって、言わずとも彼なら知っているだろうと思ったのだ。
改めて口にするのは、少し緊張する。

「…ここに」

シーツをかき分け、彼の胸に軽く手を置いた。
とく、とく。
確かに心臓が全身へ血を巡らせる音がする。
泣きそうな心地でそれに聞きいる私を見て。
に、と彼は得意げに笑む。

「…何か私にしてほしいことは?」

せめて、教えてほしかった。
あの日誰にも知られず、裏通りで力尽きて野垂れ死にしていたかもしれない私を拾ったのだ。
軽率に、生きる意味のない女を生かしてしまった。
彼には、この問いに答える義務がある。

『お前は弱い健常者なんだから』

そう手のひらで紡ぐ、彼は楽しそうだった。

『せいぜい長生きしろ』

私のお願いを突き返すなんて、ひどい人。
もう一度、近寄るようにとタオルを引かれる。
そんなことをされなくたって、私はもう、あなたに覆いかぶさって静かに泣くしかない。
神様、神様。
この人をどうか取り上げないでいて。

20151129
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