寝坊して、髪のセットはいまいちだし、服の色合いはちぐはぐで、やけに高いヒールの靴を履いてきてしまって、なんとか忘れずにいたお気に入りの髪留めがなければ心が折れてしまいそうな状態だった。 正直、誰にも会いたくない。 用事だけ済ませてさっさと帰ろう。 そんな休日に限って出会ってしまうのだ。彼とは。 「あ、名字」 意外と近くに住んでいるということは、彼と恋仲になってから知った。 いつも通りの声で呼び止められたら走って逃げるわけにもいかず、私の用事が済んだことと暇だということを知った轟くんは、「じゃあ、付き合ってくれるか」と、いともたやすく私の手を引いて歩き出した。 彼には私のちんちくりんな姿が気にならないらしい。 ほんとう、轟くんは見た目で私を判断したことがない。 どんな格好をしていても人混みのなかから簡単に私を見つけ出す。 きっと彼には常に同じ姿の私が見えているのだ。 轟くんは、他の誰もしたことがないような手の握り方をする。 まるで私の中身を確かめるような、くすぐったいかんじ。 「轟くん、どこへ行くの」 「せっかくお前と会ったから、歩く」 「歩く…」 「悪いな。こういうのは慣れてなくて、お前を連れて行くような場所は知らない」 「ううん」 手を引かれて一緒に歩く。 今はそれだけで、会話がなくてもただ彼がそばにいることが嬉しかった。 自分がすごく小さい頃もこうして大人に手を引かれたものだけれど、その時ははぐれるのが嫌だという理由だけでついて行った記憶しかない。 大人の男の人が苦手だった。 父にしても祖父にしても、好きか嫌いかと聞かれれば、どちらでもなく苦手なのだと答えた。 いつだって機嫌の悪い顔をして、他人相手に口喧嘩と苦労自慢ばかりをしている彼らの、怒っている姿は怖かった。 大人の男の人になった轟くんを、そっと目を閉じて想像する。 轟くんは、いつだって静かな瞳をしている。 苦労自慢どころか、自分の話をしているところはほとんど見かけない。 私は、彼の顔の半分を覆う火傷についてすら、何も知らないのだ。 大人の轟くん。今でさえ、私よりはずっと大人のような彼。 それでも、うまく想像はできなかった。 体育祭のあの日。 感情を剥き出しにしている彼を初めて目にした。 怒っているようで本当は震えた声で話す轟くんを、私は怖いと思えなかった。 まったく逆のことを考えた。 それは衝動に近い。 ああ、この人を抱きしめたい。なんて。 家族にだって思ったことがない。 「名字」 その声に、意識をぐんと引き戻される。 私のことを覗き込む瞳は、左右で色がちがう。 「歩くの早かったか」 「え、え、なんで」 「今つまずきそうだったろ」 「だいじょうぶ、」 思わずしどろもどろになって返事をした。 轟くんは特に気にしていなさそうに、再び前を向いた。 気にしてほしくない、そういう顔を私がしていたからだ。たぶん。 私たちはキスもしたことがないけれど一度だけ、轟くんに抱きしめられたことがある。 体育祭があって、二日間の振替休日が明けて、次に学校に行く日。 いつも通りの道で朝の待ち合わせをして、おはようとありきたりな挨拶をした途端、轟くんは私のことを腕の中に閉じ込めてしまったのだ。 あっという間で、陳腐な言い方をすれば魔法のようだった。 全身が心臓のようになって、指先をぴくりとも動かせなかった私に、轟くんは「悪い」とだけ言って離れた。 あの日のことは、ほんの少し後悔している。 だって、轟くんはあんなに子供のようだったのに。 きっと抱きしめ返してあげるのが正解だったのに。 顔を上げて、わずかに先を歩く彼のツートンカラーの髪を見つめた。 鮮やかなそれが揺れ、私の視線を察したように轟くんが振り返る。 「言い忘れてたけど、似合ってんな。それ」 指差された先にあるものを考え、私は何度かまばたきをした。 轟くんが指差したのは、先週買った高いヒールの靴ではなかった。 先々週に買ったニット編みのカーディガンでもなかった。 私が今日の装いのなかで唯一好きな、けれど年季が入って色あせてきた髪留め。 優しい色のリボンだった。 「ありがとう」 こういう時、人間って素直だ。 大切なものを褒められると、単純に嬉しくなってしまう。 するりと出た感謝の言葉に、轟くんはちょっと幼い表情をして笑った。 あ、かわいい。 そう思った時、体育祭の光景がよみがえってきた。 また、同じ気持ちになる。 この人を抱きしめたい。 大人にも子供にもなりきれず、あいまいに笑う不器用な、この人を。 「轟くん」 「ん」 「抱きしめても、いいですか」 「…そりゃこっちの台詞だ」 街中で、ひっそりと向かい合う私たちは景色のなかにうまく溶け込めているだろうか。 大人に近付くさなかの、彼の肩にそうっと触れる。 今に私は、彼の腕の中にとらわれる。 だけれど、怖くない。 怖くないよ。 20151126 title by ろっかさん |