! 迷ヰ犬怪綺譚カジノ設定

「はーやーくー」

耳元のすぐそばで、間延びした退屈そうな声が聞こえてきて、私は思わず顔を背けた。目の前には椅子に腰掛けて、脚をぶらぶらと揺らしている乱歩さんが居て、その子供っぽい仕草だけならいつも通りのことだ。
ただし、今日の彼は雰囲気が違う。黒と濃赤を基調とした瀟洒な背広に身を包んだ姿は、年相応の風格が現れている。そこまでは、いい。乱歩さんはこれから、組合のフィッツジェラルドたちも出入りするというカジノに潜入する。その場に居ても違和感のない服装を、と着替え一式を用意してくれたのは社長だった。そして国木田さんは、私が彼の恋人であるからと着付け役を指名してきたのだ。仕事とはいえ、乱歩さんがこの背広を着たら、どんなに素敵だろうか。それはもう、服装一式を目にした時から想像はしていたのだ。
案の定、乱歩さんはシャツとスラックスを身につけた段階で面倒になったらしく、「手伝って」と更衣室に私を呼んだ。彼にジャケットを着せ、背広の襟を整え…と対応していたところで、太宰さんがひょっこり顔を覗かせたのだが、その時点で追い返すべきだった。

「やあ、これはこれは。乱歩さん、とてもよくお似合いです」
「そうだ、前髪を作ると男性は幼く見えると聞きました。ちょっと失礼」
「では。お邪魔しました。頑張ってねなまえ〜」

太宰さんは、矢継ぎ早に一人でまくし立てたあと、私と乱歩さんの間に割って入ったかと思うと、乱歩さんの髪にちょいちょいと、何かを施していった。嵐のように去っていった太宰さんを見送ったあと、「あいつ、何だったの」という声に振り向いたら、前髪を横に流した、大人っぽい乱歩さんがいたというわけだ。私は、彼の澄んだ綺麗な瞳にめっぽう弱い。遮るものがない乱歩さんの瞳は、少々私には刺激が強く、そこから着替えの手伝いが進まなくなってしまった。馬鹿馬鹿しい話だと思う。でも、好きな人のまだ見たことのない姿に、どうしようもなく心をかき乱されているのを誤魔化すことができない。

後はシャツの襟を上げ、蝶ネクタイのベルトを留めてあげて、襟を綺麗に整えるだけなのだ。それなのに、乱歩さんと最も接近する作業であろうことを思うと、手が震えてしまう。勿論、だからといって乱歩さんが自分で蝶ネクタイを付けるはずもない。一分の隙もなく、大人っぽく完成された乱歩さんは、先程から私を面倒そうに覗き込んでいる。それからようやく、脇の鏡に目を留めたらしく、「ああ」と納得したような声を出した。

「やけに視界がすっきりしたと思ったら、太宰の奴が髪を弄っていったのか。どうでもいいけど。ねえなまえ、早くそれ付けて。与謝野さんに置いていかれちゃうよ」
「む、無理です」
「無理?なんで?」
「ちょっと、乱歩さんの雰囲気が普段と違いすぎて…困るというか…先刻から直視できないんです…」

ああ。素直に口にしてしまった。馬鹿にされてしまう。
ちらりと横目だけで、彼の表情を確認する。矢張り、とても不服そうだ。
はあ、という溜め息が聞こえたかと思うと、乱歩さんが呆れた声を出した。

「何かと思ったら、僕が髪型を変えた程度でそんなにおどおどしてるわけ?僕という人間の中身は何も変わらないのに?」
「情緒がない…」
「理解に苦しむなぁ」

乱歩さんが椅子から立ち上がると、革靴の踵がカツンと小気味のいい音を立てた。真正面に乱歩さんが立っている気配があって、私は床のあたりで視線をうろうろと動かした。

「僕はいつだって世界一の名探偵で世界一格好いいつもりだけど」
「それは否定しません!その通りです!でもほら、見慣れた服を着た美女と、綺麗に着飾った美女は、違うじゃないですか!」
「は?物の例えに知らない誰かを出さないでよ。太宰じゃあるまいし、興味ないから判らないんだけど。…ああ、確かに。君が装いを変えるなら、それは楽しいかもしれないね」
「へっ?」

ふふん、と一人で納得して笑みを深める乱歩さんは、私の手のひらを握った。乱歩さんは私の手を引いたかと思うと、自分の額のあたりに触れさせる。ちょうど、私の指先が柔らかい黒髪を掻き分けるように。綺麗にセットされた髪が指の隙間から、はらりと乱れる様が目に焼き付いた。

「別に、君はいつでもこうしていいんだよ。まだ見たことのない僕の姿が見たいなら、見せてあげよう。君なら、僕が許す」
「……っ」
「光栄だろう?」

声を出すことも頷くことも叶わなかったけれど、私の表情だけで、乱歩さんは私の感情のすべてを受け取ったようだった。その証拠に、彼の口元には勝ち誇ったような笑みが浮かんでいる。
私は、もう片方の手から蝶ネクタイが滑り落ちてしまいそうなことに気付いて、ぐっと手のひらに力を込めた。それから、乱歩さんに握られていた手首をそっと解いてもらって、仕事優先の字をひたすら頭に思い浮かべながら、乱歩さんに蝶ネクタイを付ける最後の仕上げを行った。そうして無心にならなければ、もう動けなくなってしまいそうな予感がした。
一度立てた襟を戻し、蝶ネクタイのベルトがはみ出していないことも確認してから、私は大きく息を吐き出した。

「はい、着替えが終わりました!どうぞ潜入してきてください!」
「あっはっは。なまえって場を誤魔化すのが本当に下手くそだよねェ」

きっと真っ赤になっているであろう顔を、今更目の前の乱歩さんから隠せるわけもない。俯くことは無意味だと思って、じとっとした視線で見上げた先には、矢張り格好いい彼がいるのだ。堪ったものではない。

「そんなに君が気に入ったなら、仕事が終わってもしばらくはこの格好でいようかな。そのほうが面白そうだからね」

乱歩さんは翠の瞳を細めると、その言葉を最後に、ひらひらと手を振って更衣室を出て行ってしまった。靴音は高らかに、彼の存在が遠のいていくことを示していたが、私の鼓動はいつまでも落ち着かないままだった。なんて心臓にわるいひとなのだろう!

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -