もう嫌だ、死にたいと行きつけの喫茶店で口にすると「じゃあ私と心中しようか」と、整った顔立ちをした彼は澄んだ瞳で云った。
それから私たちはコーヒーを飲み終えた後、近くにある川辺まで歩いて行った。「うずまき」の常連客として、顔見知り程度の仲である太宰くんに手を引かれて歩くあいだ、私はスイッチを切ったかのように思考が停止していたと思う。仕事でひどく嫌で悲しいことがあって傷ついていた。喫茶店で太宰くんと会話をしたのは、私の独り言に近い呟きを、偶々近くの席に座っていた彼が拾ったに過ぎない。私たちは決して親しい仲でも苦楽を共にした仲でもなかったが、私はどんな方法でもいいから消えていなくなりたいと、その時は自棄になっていたのだ。かつて私にも軟派のような心中の誘いをしてきた彼ならば、望み通りの結末をもたらしてくれる気がした。

そう、確かに死にたいと願っていた筈なのに、いざ太宰くんに腕を掴まれて川の水にどぼんと落ちた時、真っ先に思考を支配したのは恐怖だった。水は刺すように冷たく、濡れた衣服は重みを増して肢体にまとわりついて不快だった。呼吸が苦しくなってからようやく、自分の判断が愚かだったことに気付く。苦しい。苦しい。たった今私が求めているのは死ではなく、酸素だ。
水中で垣間見えたのは、私のように無様でもなく苦しんでもいない太宰くんの姿だった。水に沈んでいく重みに身を任せている彼の瞳がふいにこちらを向き、視線の合った私はぞわりとした。道連れにしてやるぞと、云われたような気がした。

そこから先は無我夢中で、詳細は覚えていないが、気付いたら私は岸辺で口から大量の水を吐き出していた。隣には、同じくずぶ濡れの太宰くんがぐったりと横たわっている。運良く流れ着いたのか、私が引っ張ってきたのか、それすら記憶がなかった。自力で泳いできたという可能性は低いだろう。彼が自殺嗜好者だということを、私は知っていた。
私は呼吸が整ってから、隣の彼の肩に手を置いて揺さぶった。急激な息苦しさから解放されて、川に落ちる前より思考は何故かクリアになっていた。水を吸った砂色の外套は外気に晒されて氷のようであり、あまり長いこと触れていたくはなかったが、無事生還した私の隣で太宰くんにだけ死なれては困る。彼の生命力の強さに関しては太宰くんの仕事仲間の人から聞いたことがある。私が心配するまでもないだろう、という予想を裏切ることなく、太宰くんはゆっくりと上半身を起こした。

「…惜しかったなぁ。実に、惜しかった。今日の君には心中がこれまでにない程似合っていたのに。私もようやく、最期まで添い遂げてくれる相手を見つけたと思ったのに」

その言葉は、声だけを聴くならぞっとする響きをしていた。いつも喫茶店で耳にする彼の話し方とはあまりにも別人のようで、心のない何者かが彼に乗り移っているのではとさえ思った。しかし、太宰くんは前髪からぼたぼたと水を滴らせながら云うものだから、怖いも何もない。私が手のひらを伸ばして彼の濡れた前髪をぐいと掻きあげてやったら、「わぅ」と風呂上がりに体をもみくちゃに拭かれる子供のような声を出していた。前髪をあげた太宰くんは、凛々しい顔立ちが露わになると同時に、幼さが増して少年のようにも見えて、私はゆるく息を吐き出した。

「無事で善かった」
「何も善くないよ。私も君も、死にたかったのだよ?ああ、また失敗してしまった」

太宰くんはやれやれといった風に立ち上がり、外套の裾を絞った。私も真似してスカートの裾をぎゅうと握ってみると、水が落ちて地面に染みを作った。
私たちは顔を見合わせて、なんだかおかしくなって笑った。太宰くんは興が削がれたように肩を竦めたあとに、小さくくしゃみをした。

「うう、寒い。私は自殺はしたいけれど、風邪は引きたくないなぁ。このまま探偵社に行くけれど、君も来るかい?」

太宰くんは、私に手を差し伸べて云った。先程、彼に手を引かれて歩いたことを思い出す。あの時は死神のように思えた手のひらは、今はただの男の人の手のひらだった。私は手を伸ばしかけて、やめた。

「ううん、行かない。それと、心中はもう二度としない」

私がそう告げると、太宰くんは一瞬だけ感情の読めない瞳をした後に、破顔一笑した。

「振られちゃったなぁ」

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