「足元暗いから、気をつけろよ」

黒手袋を嵌めた手のひらが、私の背中を包むように触れて、ごく自然にカウンター席へと導いた。瞬間、まるで似ていない仕草なのに、彼が膝をついて恭しく私の手を取る姿を想起した。それくらい、気障な仕草だと思った。
カウンターの椅子は座面が高く、座るのにちょっとばかりの苦労を要した。中原さんは慣れているらしく、さっさと座った後に私のことをじっと見ているので恥ずかしさがいや増した。
こんなに高そうでお洒落な店には来たことがない。如何していいか判らずに、視線を彷徨わせていると、視界の端のテーブルをとんとん、と叩く指先がある。それから、メニューをすいと差し出た手のひらを上に辿っていくと、少し楽しんだような表情の中原さんがいた。

「好きな果物は?」

その問いに答えると、中原さんはじゃあこのカクテルだな、と呟いたのちに、自分の分と合わせて注文してくれたようだった。聞き慣れない名前なので予想になるが、彼が頼んだのは葡萄酒に違いない。彼がカクテルの名前を指差していた手のひらを退かして、メニューを攫う時に、私はほんの僅かに見えた数字にぎょっとした。

「ねっ、値段…」
「ばぁか。女に払わせるとでも思ってンのか。安心しろ」

上司であり、憧れであり、片思いの相手である彼に奢ってもらうからこそ恐縮するのだということを、中原さんは判っていない。いや、私の内心を知られる方が不都合ではあるのだけれど。
今までも何度か、中原さんが「飲みに行くぞ」と私を誘ってお店に連れてきてくれたことはある。けれども、なんというか、ここまで雰囲気があるバーは初めてだ。今まではある意味、彼が私のレベルに合わせた店を選んでくれていたのだと知る。中原さんは、今日ここにいる誰よりも、この店にいることが様になっている人だった。薄暗い店内の柔らかな間接照明の中で、風景に溶け込むみたいに、馴染んでいる。きっと常連なのだろう。
中原さんは、メニューをほとんど眺めずにチーズの盛り合わせとオリーブの生ハム巻きとミックスナッツを頼んだ。これもきっと、「いつもの」というやつだろう。
中原さんのくつろいだ様子に、私は尋ねた。

「ここのお店にはよく来られるんですね」
「まァ、そうだな」
「中原さんは、結構いろんな方と飲みに来られるんですか?」

中原さんは、下っ端とも呼べなくもない私のことまで気にかけてくれるような人だ。さぞかし部下に慕われているだろうし、その部下たちを連れて飲み会というのも珍しくないだろう。私は即答が返ってくるものとばかり思っていたが、カウンターに頬杖をついていた横顔は、意外そうに一度ぱちりと瞬きをした。彼が体ごとこちらに向き直ると、スツールがギッ、と鈍い音を立てた。

「いいや?最近は、手前だけだな」

青い瞳が愉快そうに細められ、彼の唇が弧を描く。予想外の返答に、私が言葉を忘れていると、中原さんはこちらへ無造作に手を伸ばしてきた。私の惚けた意識を引き戻させるかのように、カウンターに置いていた手の甲を、彼の指先がつつ、となぞる。それをきっかけに、私は頭をぐらぐら揺さぶられたような感覚に襲われる。
思わず手を少しだけ引っ込めてしまうと、中原さんは一度喉の奥でくっと笑って、運ばれてきた葡萄酒のグラスに口を付けた。
目の前に置かれたカクテルを飲もうとしたが、手が震える気がして躊躇ってしまう。なんだか、おかしい。今まで飲みに誘われた時はこんなに明確な言葉をもらったことはなかった。私はこの店が中原さんの支配地であるかのような錯覚を受け、何か行動を起こさなくてはいけない気がして、ようやくカクテルを一口飲んだ。

「…美味しい」

心から出た言葉だった。私の独り言に近い呟きに対しても、中原さんは視線を寄越すので、私はもう一度少し大きめの声で美味しいです、と繰り返した。

「だろ?」

とても満足そうに、彼が微笑む。先刻とは打って変わって、子供らしさの混じる笑みに、私は膝の上の手をぎゅうと握りしめてしまった。彼がこんな風にさまざまな顔を見せるのは、誰にでもというわけではないと、思いたい。中原さんの言葉が、戯れではなく本音だと信じたい。私の心を読んだかのように、上機嫌そうに中原さんは云った。

「ここに連れてきたのは手前が最初だ。その意味、よく考えろよ」

私が唸りながら頭を抱えるのを、中原さんはやはり隣で笑うのだった。私はこの人に与えられたものの返し方を、この店から出るまでに精一杯考えなくてはならないのだ。

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