小学生の頃、演劇でお姫様の役をやったことがある。そう言うと大抵の人は、いい役だったんだね!と言ってくれるのだけれど、私はそういう時に苦笑いを浮かべてしまう。当時、クラスメイトの活発な女の子たちの間でお姫様役は取り合いになった。その光景をぼうっと眺めていただけの私が、女子全員を対象としたくじ引きでお姫様役を引き当ててしまった。つまり、私は望まない形でお姫様に選ばれてしまったわけだ。
極端にあがり症で声も小さい私は、その一大事をまずは親に相談した。しかし、両親は我が娘が主役となれば、喜ぶばかりで私のプレッシャーを理解するはずもなく。女の子の友達も、うらやましいと言う一方で。
誰かに悩みを聞いてほしくて困り果てた私は、ある日の放課後に隣のクラスを覗き込んだ。仕事を終えた日直さえもいなくなった教室で、男の子が一人、窓辺の席に座っていた。私が通う小学校は制服着用が義務づけられていて、他の男の子たちの着こなしは年相応らしく、それなりに乱れていたのだけれど。その男の子は、制服をきっちりと着こなしていて、それでいて真面目で堅すぎる印象ということもなく、柔らかい笑顔が作れる子だった。

「南條くん」

私が教室の入口から囁くように名前を呼ぶと、彼は窓の方へ顔を向けたまま「んー?」と間延びした返事をした。他の男の子たちが嫌がる三つ折りソックスをきちんと履いた足先をぶらぶらさせて、数秒経ったのちに、南條くんはこちらを振り返った。

「なまえの声、ちっちゃいからさ。聞こえるように入っておいでよ」

私はそれだけでもう嬉しくなってしまって、こくこくと頷いてから南條くんの席の近くまで歩いて行った。彼は再び頬杖をついて窓の外に目を向けている。

「何見てるの」
「鳥の巣。木の上にあるんだ」

彼が指差す方向に目を向けると、確かに校舎脇に植わった木の上に巣があった。けれども、巣の主であるはずの鳥の姿が全然見えなかったので、私は背伸びをしたり角度を変えてみたりしてみた。やっぱり、見えない。
隣から、ふっと息を吐き出すような笑いが聞こえてきた。

「そんなことしたって鳥はいないよ。もう秋だからね」
「そ、そっか」
「あの巣は来年の春に使われるんだ。最初に巣を作った鳥とは、全然別の鳥にね。不思議だなぁ。そうやって後から来て楽をした鳥はいいけれど、最初の鳥の苦労はどこで報われるんだろうね」

私は南條くんのことをじっと見つめてしまった。彼のことは小さい頃からご近所さんで知っているけれど、何を言わんとしているか図りかねる、不思議な話をすることが度々あった。そのたびに、私はどう言い返すべきか正解に迷い、そして南條くんは特に誰の答えも求めていないように思えた。

「で?何か話したいことがあって来たんでしょ。なに?」

それまで熱心に眺めていた鳥の巣から急速に興味を失ったように、南條くんは人のいい笑顔を浮かべて私の方を向いた。彼の切り替わりに少しびっくりしながら、私は演劇でお姫様役をやることになったと話した。南條くんは「ふーん」とだけ言った。良かったね、とも、頑張りなよ、とも言わない。そういう月並みの感想を言わない予感があったから、南條くんに話したくなったのだ。

「自信がないの。他にもこの役をやりたい子はたくさんいたのに。私はその子たちみたいにかわいくないから…」

本心だった。南條くんだったら、何を話しても素直な反応を返してくれるという安心感があった。他の女の子たちには、どんなに仲が良くても、言えないことだった。
私は南條くんに、「じゃあ辞退すれば」とか「でもやるしかないじゃん」とか、そういった言葉を返されると思っていた。南條くんが言うことなら、私もそれが正しいと受け入れられる。
南條くんは頬杖をついて、ゆっくり瞬きをして、何でもない、当たり前のことを話すような調子で言った。

「なまえはかわいいよ。お姫様の役、見てみたいな」

南條くんの瞳は、夢の中でしか目にすることができないような綺麗な色をしていた。
私は、まるで、ここに居ていいと言われたような気持ちになった。顔がわっと熱くなって、無敵の気分になった。彼の言葉で、私はお姫様役をやろうと思えたのだ。
小学生の私は、この先の人生ずっと余韻が残るような衝撃を、南條くんから受け取った。
南條くんと私の決定的な思い出はそのひとつきりだ。けれども、彼との交流は細々と続いていて、南條くんはその「かわいい」という褒め言葉を何かの機会があるごとに口にしてくれた。たとえば、中学校の制服姿を見せた時。たとえば、髪型を思い切って変えた時。南條くんは私のことを褒めてくれた。私は嬉しかった。
南條くんは、言いたいことをそのまま口に出すことが多い人だ。だからこそ、彼に「かわいいよ」と言われたら、私は何でも出来る気がした。他の誰にかわいくないと言われても平気だと思った。

──あれから数年が経って、南條くんはその言葉をぱたりと言わなくなった。
彼が褒めてくれた髪をバッサリ切った。
幼い頃から続けていたピアノの上達を諦めて、ネイルをした。
お気に入りの腕時計を、古臭いからという理由で捨てた。
すべて、高校生になってからできた彼氏のためだった。私は彼の好みに合わせて自分を作り変えていった。
新しい腕時計は高価でキラキラしていて綺麗だったけれど、それを身につけた私の腕は、自分のものではなくて別の人の腕のように見えた。

「かわいくない。全然かわいくない」

その頃会った南條くんにそう言われて、私は心がふるえた。怯えたように、胸が痛んだ。自信がなくなっていく。自分が間違った方向に変化しているような錯覚をする。私は望んで変わっているというのに。
私は好きな人と付き合ったはずだった。けれど、彼とは小さな諍いをするようになって、それがだんだんと増えていった結果、別れた。付き合ってから別れるまで、驚くほどあっという間だった。
別れ話をした日の帰り道で、久しぶりに南條くんに会った。その日、私は絶対にかわいくなかったはずだ。好きな人と喧嘩別れして、涙で顔はぐちゃぐちゃで、逃げるように帰ってきたせいで髪も乱れていて、服もアクセサリーも何もかも南條くんの好みではなかったはずだ。昔の私とは、まったく違う私だった。けれど、彼は言った。ゆっくりと瞬きをして、笑顔を浮かべながら。

「かわいいよ」

そう言って、泣きやまない私のおでこに慰めるみたいにキスをした。こんな私がかわいいはずがないのに。
南條くんはキスはしても、私の涙を拭うことはしなかった。怒っているのだ。私が、南條くんに断りなく、他の男の人と付き合ったことを。
南條くんのことは友達だと思っていた。かけがえのない言葉をくれる、大切な友達。
私たち、友達じゃなかったの。キスされた後にそう言ったら「俺の言葉ってずいぶん軽く思われてるんだね。ひどい奴」と笑っていた。ちがう。私にとって南條くんのくれる言葉は何より輝いていた。それは本当だ。
彼氏と別れた時とは、別の悲しみに襲われる。南條くんに詰られるのは、つらい。また、とめどなく出てくる涙を、南條くんは観察するように眺めていた。私、標本にでもなった気分。
南條くんはもう一度私の頬に触れ、「かわいいよ」と言った。私を喜ばせる言葉を、彼はそれしか知らないのだ。そう悟った瞬間、涙がまた一粒、頬を転がり落ちていった。

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