ぷつん、と。引っかかっていた何かが外れる感覚がして、自分の袖口に視線をやった。今まさに脱ごうとしていたジャケットの袖にはボタンがひとつ足りず、ちょうど足元に落下したボタンがカーペットの上をころころと転がっていく。ベッドの下に入り込んでしまったら面倒なので、とっさに拾いあげる。

「あのさぁ、なまえ」

ボタンを手に取るとほとんど無意識に、その名前を呼んで振り返った。俺の声が他に誰もいない部屋にむなしく響いた。数秒遅れて、何とも言えない気持ちになりながら呟いた。

「…今はいないんだった」

ビジネスホテルの一室で吐き出した息は、ため息なのか、ただの呼吸なのか。
綾薙学園を卒業したのはずいぶん昔のことのように感じる。今は所属している劇団の全国公演の最中で、公演以外は移動のための車と寝泊りするホテルで大半を過ごしていた。
彼女はこんなところではなく、いつも通りに家にいるはずだ。一人きりだと自炊にやる気が起きない、などとぼやいていたから、今日の夕飯は手抜きにしているかもしれない。食卓に一人で座ってつまらなさそうにしている彼女のことを想像したら、先程のむなしさは跡形もなく消え去っていた。
ボタンひとつで、こんなにも彼女のことを思わされる。手の中でもてあそんだボタンはべっこう色に光っていた。いま頭に浮かんでいる記憶も、綾薙学園卒業ほどに昔のものだ。
当時の彼女は、俺の着ていた服からボタンが取れると、自分が直すと言って聞かなかったのだ。

「わざわざ付け直さなくていいよ。もう寿命なんじゃない?」

暗に「もう捨てるか、買い替えるから」といった言葉を返したが、彼女は反論した。

「まだ新品みたいじゃない。悪いところは全部直すから、教えてちょうだい」
「よくやるよねー。俺だったら捨てちゃうなぁ」
「服の寿命は扱い方で決まるって、私はそう思ってるから」

裁縫が趣味だった彼女は、本当に俺の服を持ち帰り、ボタンを付け直し、綺麗にアイロンをかけてから持ってきた。そんなふうに手を施された服には、わずかばかりの愛着を持たざるを得ない。たしかに彼女はあの時、俺の服の寿命を延ばした。

思い出に引きずられて、ホテルのフロントに連絡して、ソーイングセットを借りてきた。
針に糸を通す。

「痛、…」

早速、針先で指を突いた。
自分はわりと器用な方だと思っているのだが、裁縫などいつ以来かわからない。特に、あの出来事以降は彼女に任せきりの分野だ。
もどかしい。糸の処理がどうも綺麗にならない。彼女がやると、ほとんど目立たないというのに。

彼女が裁縫をする姿を思い出す。膝に布を載せて、ひとつひとつの動きが丁寧で、雑になったり疎かになったりすることがない。綺麗に直ったと、俺のところに持ってくる笑顔が、また。

ああ、そうだ。
そうして、俺の服をひとつひとつ丁寧に畳むところだとか。
俺のものを俺より大事そうに扱う指先だとか。
全部好きで、もう誰にも渡したくないなって思ったから、プロポーズしたんだった。

急速に感情の波が押し寄せてくる。
しかし、当の彼女はここには居ないので、少し考えた後に携帯電話を取り出した。
電話帳から、もっとも多く掛けているだろう番号を選んで、スピーカーをオンにした状態で机に置いた。
数回のコール音の後、驚いたような声が聞こえてきた。

「聖、どうしたの?メッセージじゃなくて電話なんて珍しい」
「んー?俺の奥さんが浮気してないかなぁと心配になって」

一瞬の間。それから、呆れたように怒った声。
うちの劇団員に並ぶような声量だったが、携帯電話を机に置いておいたおかげで鼓膜は無事だ。元気そうでなにより。
怒らせるようなことを言った自覚はあるので、軽い口調に本音を混ぜ込んだ。

「うそうそ。…俺が声を聞きたかっただけ」
「最初からそう言いなさいよ」

まだ声色が怒った調子だ。
携帯電話を手に取る。スピーカーをオフにする。携帯電話を耳に当てて、話を続ける。

「そんなこと言って、俺が何でもかんでも素直に口に出すとか、違和感ない?」
「…茶化されるよりいいよ」
「そ?じゃあさ、なまえ。今日も愛してるよ」

長い長い沈黙があった。
しばらく反応を待ってみたが、電話を切られたのかと疑うくらいに静かだったので、「もしもーし、なまえさん?」と呼びかけてみる。

「…聖」
「なに?」

俺は少しだけ微笑む。彼女が俺の名前を呼ぶ声は不服そうだが、もう怒ってはいなかった。

「そういうのは、電話でも嬉しいけれど、直接言ってほしいよ」
「うん」
「公演が大成功に終わるように、応援してるからね」
「当然。大成功するように練習してきたから」

こういう何気ない会話も、たったボタンひとつの付け直しでも、俺にとっては必要なものだと思う。ごく近くの、手の届く範囲にいつだってあればいいと思う。こんなことを離れてみて気付くだなんて、ばかばかしい。けれど、悪くない。
そう思っていたら、なまえが急に小さな声でささやいた。

「…私も、愛してるから」
「え」
「それだけ!じゃあね、おやすみ!」

見事に言い逃げを食らってしまった。
きっと意趣返しのつもりで口にしたら、思いの外恥ずかしくて耐えられなかったんだろう。通話終了の表示が出ている画面を少しだけ眺めて、ゆるりと息を吐き出した。これは決してため息ではなかった。

「…ずっるいなあ」

俺は自分が縫い付けたボタンの糸を切った。バランスの悪い糸に固定されていたボタンは、自由になったように見えた。
ジャケットの袖口は少しばかり不格好だが、それでもいいと思うことにした。これを着て帰ったら、彼女は嬉々としてボタンを付け直す。それは変わらず、俺の手の届く範囲にあるものだった。
俺は手のひらに載せたボタンを、ジャケットのポケットへ大切に仕舞った。

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ボタンが取れた服を直すのも、着て歩くのも嫌いそうな南條くんが、恋人が直してくれるからという理由で、ボタンが取れた服を大事にする話

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