「まだ、帰りたくない」

夏祭りの帰り道。私の言葉に、浴衣姿の入夏くんは、暑そうに団扇を動かしていた手を止めた。それまでは楽しそうにころころと変化を見せていた表情が、ひとつに固まる。こちこちになった表情筋で、入夏くんは「え」と呟いたきり、今まで以上に暑そうな顔をした。頬と耳が赤い。
こんなふうにわがままを言っても、困らせるだけだとわかっている。けれど、彼と繋いだ手を頼りに歩いた人混みも、祭りの喧騒に負けない彼の明るい声も、射的やヨーヨー釣りが得意だと言っていた自信に満ちた横顔も、全部が離れがたい。私が、繋いだ手のひらにぎゅうと力を込めると、やや遅れて握り返してくれる手のひらがあった。そのためらいは、照れているからだと知っている。入夏くんは、立ち止まってしまった私に笑みをこぼすと口を開いた。

「あー…、でも、あんまり遅くなると親御さんが心配するっしょ」

入夏くんは、奔放に見える時もあるけれど、いつも正しいことを言う。私と違って、根がいい子なのだ。しかし、わがままを言った女の子に、男の子の正論は逆効果だと思う。そんなことはないのに、自分の気持ちを否定されたような気持ちになって拗ねてしまう。そこは、お世辞でも「オレも帰りたくない」って言ってほしかった。なんて、本当にわがまま。
いつだって、私のことも、他の人のことも、平等に気遣うことができる入夏くんのことを尊敬している。こんな人になれたらなあ、と何度憧れたかわからない。憧れる反面、ほんのちょっとだけ、優しすぎる彼を妬んでしまう時もある。彼は優しいから、聞き流すことをしないで、私のわがままに困った顔をする。困った顔をしながら、子どもを宥めるみたいに笑う。そんなこと言わないで。そう囁くときの笑顔がいちばん好きで、困らせてごめんなさいって、思う。
私の表情を読み取ってか、入夏くんは優しい声で言った。

「困らせてるなって思ってる?」
「うん」
「ホント。困っちゃうよ」

入夏くんが一歩、二歩と距離を詰めて、団扇を浴衣の帯に挿してから、手のひらを私の頬に添えた。輪郭をなぞるように滑った指先は、あごを軽く持ち上げる。わずかに上を向かされた視線が追いつくより早く、私のおでこに温かいくちびるが触れた。すぐそばの入夏くんから、さっき二人で一緒に飲んだラムネの香りがする。

「帰したくなくなっちゃうじゃん?」

楽しげに細められるスカイブルーの瞳。けれど、知っている。入夏くんはいい子だから、このまま私の手を引いて、ちゃんと家まで送り届けてくれるのだ。あなたは優しい狼さん。

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