今日は任務でほとんどの獄卒が館を出るのだそうだ。 そのために俺はリコリス総合病院に赴くことなく、朝から特務室の留守を任されていた。 急患が出れば病院に呼ばれるかもしれないが、体の再生が可能という獄卒の性質上、そんなことはほとんどない。 少し前に人間が迷い込んできたときは、好奇心から自発的に病院へ駆けつけたこともあったけれど。 自室でのんびり薬学に関する本を読んでいると、誰かが帰ってくる気配があって席を立つ。 玄関に着いてみると、名前が自分の頬をごしごしと拭っている姿があった。 今日一番早く出かけて行ったのは彼女だったから、必然と帰ってくるのも早いのでは、という予想は当たっていた。 「おかえり、名前」 「…抹本。ただいま」 名前は俺に気付くと、はっとした様子で衣服を整えた。 亡者の返り血を浴びた姿を俺に見られるのが気まずいらしい。 俺は彼女が俯きがちなのを気にせず、彼女の肩や腕をぺたぺた触った。 「うん。外傷なし。名前、大丈夫だよ」 「ありがとう」 いつも通りの対応をしたら、名前がようやく笑顔を見せた。 帰ってきて、抹本がいて、大丈夫って言ってくれると安心するの。子供みたいでしょ。 以前、少し恥ずかしそうに打ち明けた彼女の様子を思い出す。 俺にできることだったら、なんでも言ってほしい。 そんなふうに感じるということは、つまり俺は彼女のことを。 自覚したのはずいぶん前の話だ。 「(隈がある。このまま寝ても疲れは取れないだろうな…)」 単独任務だったからか、彼女の顔色に疲労が色濃く滲んでいる。 ほとんど一日中、しかも複数の亡者を追いかけ回していたらしい。 疲れて当然だ。 「お疲れさま。名前、先に着替えてきたら…?そのあと、俺がよく眠れる飲み物でも持っていくから」 「いいの?なんだか抹本が留守のときは至れり尽くせりで申し訳ないなあ」 「俺は戦うのが専門じゃないからね。これくらいはしないと」 ぽんと肩に触れると、彼女はお言葉に甘えてと言って、少し頼りない足取りで自室のほうへ歩いていった。 その姿が角を曲がるまで見送ると、俺はつぶやく。 「そう。これくらいはしないと」 自分でも怖い声だなと感じた。 さっき名前の肩に触れたとき、彼女に悟られないように引き剥がしたのは上手くいったようだ。 左手で掴み上げた黒いもやのような怪異がギイギイと暴れる。 小さいとはいえ、憑かれたことに気付けないなんて名前らしくもない。 「ついてきちゃったんだね…。悪い子だ」 俺は踵を返すと、玄関から外に出た。 外套から小動物を飼育するためのガラスケースを引っ張り出し、地面に置く。 それから名前の肩から引き剥がした怪異をケースに放り込んだ。 そして間髪入れずに取り出した試験管の中身をガラスケースに注ぎ込むと、ギイイという耳障りな叫び声と異臭、煙が立ち込める。 「醜いなあ」 怪異や亡者に危害を加えるのはなかなか慣れない。 荒事は、病院の中の世界に慣れてしまっているからかどうにも苦手だ。 俺は薬師であり、獄卒だ。 苦手なものであっても必要に迫られれば対処しなくてはならない。 今回のような場合は、特に。 「俺の大事なひとに手出ししないで」 ぐずぐずと形をなくしていく怪異には聞こえているだろうか。 この薬品は俺のとっておきで、肋角さんや災藤さんにも詳細は話せていない。 これは怪異や亡者の再生能力を著しく低下させるもので、俺たち獄卒が浴びてもただでは済まない。 薬品は皮膚を焦がし炭化させ、もし全身に作用すれば炭化と再生を三日間は繰り返し、その激痛により何度もショック死をするだろう。 それをこの小さな個体に撒けばどうなるか。 怪異に死はない。再生を繰り返すだけ。 しかし再生できなければ、それは死と呼んで差し支えない。 俺が見下ろす先には、黒い焦げ跡しか残っていなかった。 「ここまで甚振れば、もし再生できても仕返しにこないかな」 館まで追ってくる怪異は執念深く、なかなかに厄介だ。 報復に来られても困るから、徹底的に追い払わなくてはならない。 少し疲れた気分で、館に入って扉を閉めた。 食堂を覗くと、着替えた名前が立っていた。 「あ、抹本。お昼の残りがないかなって、探してたんだけど。どこ行ってたの?」 「う、うん。ちょっとね…」 気取られないように、平静を装って台所に踏み込む。 「そこの鍋にシチューの残りがあるから」と指差しながら名前のマグカップを探していると、ふいに俺の頬を温かいものがくすぐる。 名前が手のひらを伸ばしてきて、俺の顔をじっと覗き込んでいた。 「抹本。どうしたの、こわいものでも見た?」 一瞬身構えた俺は、彼女の言葉に安堵した。 自分が怖い顔をしていたなら、彼女に嫌われてしまう可能性もあったけれど、彼女には俺がいつもの怖がりの姿に見えている。 普段通りだ。 薬師の俺に助けられたなんて、名前は知りたくないかもしれない。 だから俺は彼女が安心できるように、繰り返すだけだ。 「ううん。大丈夫」 彼女が安心すると言ってくれた言葉。 大丈夫だよ。残らず殺しておいたんだ。 せめてここに帰ってきた君を守るのは俺の役目だから、なんて言えたら気持ちいいんだろうなあ。 20160330 |