あいつからはいつも煙たいにおいがした。 それはつまり、あいつが常に肋角さんのそばにいるということの証拠だった。 「あの子は管理長のそばにいることが仕事だからね」と災藤さんが言ったことがあった。 肋角さんは一笑に付すだけの反応を見せたが、否定はしなかった。 もともと頻繁に笑う性分でもないのだが、俺はそれを聞いて笑うことができなかった。 俺だって、災藤さんの言葉を本気にしたわけじゃない。 あいつは獄卒である以上、特務室に足を運ぶ以外にもきちんと任務をこなしている。 この屋敷に住んでいるわけでもない。 特務室配属の俺たちのほうが肋角さんと顔を合わせる機会は多い。 それなのに、だ。 あいつとすれ違うと必ず紫煙をくゆらせる肋角さんを思い浮かべる。 どんな時だって香るのだ。 彼女の髪から、服から、肌から。 まるで所有物かのように煙草の香りが漂ってくる。 「名前?…実は詳しく知らない。肋角さんと話している姿は、よく見かける。姉のような存在…なんじゃないか。俺たちにとっては」 斬島はそう答えた。 「名前?あの人はとても物知りだよ。見た目は俺たちと変わらないように見えるけれど、年の功って感じがするよね。…っと、今の発言、本人には言わないでね?相手は女性なんだから」 佐疫はそう答えた。 「名前!オレは好き!肋角さんと同じにおいがして、懐かしい感じがする!お菓子くれるし優しいし!…田噛が他人のこと聞くなんて珍しいんじゃね?」 平腹は余計な一言を残していった。 「名前?…聞くまでもないだろう。肋角さんといる時のあいつには、なんとなく近寄りがたい。二人にしか分からない何かがあるんだろう」 谷裂はそう答えた。 「ああ、名前?実はおれもうっすらとしか記憶にないんだけど、獄卒になった頃にはもういたかな。相当の古株だよ。…田噛、彼女はやめておいたら?言わなくても、わかると思うけれど」 木舌はろくなことを言わなかった。 災藤さんや肋角さんに聞いてみようかとも考えたが、想像だけでなんとなく恐ろしかったのでやめておいた。 それに、聞いてしまったことがある。 執務室の前を通りかかった時に。 「ずっと昔から一緒にいるというのに、あの子をそばに置くだけなんですね」 「…何の話だ」 「名前のことだよ。あの子には貴方しかいないだろうに。求められるものくらい、与えてやったらどうなんですか?管理長」 「馬鹿馬鹿しい。親が子に手を出すところを見たいのか、お前は」 「本当の親子ではないのに?」 「親子のようなものだろう」 ずっとそばに置くだけ。 気の遠くなるほどの死のない時間のなかで、二人は寄り添って、寄り添うだけで生きてきたのだという。 肋角さんは本当に、俺みたいな奴とはちがって大人だと思う。 俺だったらあいつを、他の誰の目にも届かないところへ連れ去って、出来もしないのにお前を幸せにするなんて言葉を吐いてしまうんだろう。 ああ、滑稽な。 「田噛?どうしたの、そんなところで」 ほら、よりにもよって会いたくない時に出会ってしまう間の悪さだって、相手が彼女であるならば愛おしい。 はるか昔からここにいた人。 俺が右も左も分からない頃から、母のように姉のように、慈しみ笑いかけてくれたひと。 他の獄卒たちとはちがって、こいつを女としてしか見られない俺はきっとどこか間違ってしまっている。 その声も、仕草も、表情も、慣れ親しんでいるというのに胸が騒ぐのだからどうしようもない。 「入らないの?持ってるの、報告書でしょう」 俺の手を指差してから、名前はゆっくり扉のほうを向いた。 肋角さんが彼女の名前を出して、何か話していることに気付いたのだろう。 彼女の意識が持って行かれる。 手を伸ばせば届く距離。けれど決して触れてはいけない。俺はそれを許されていないのだから。 何度もそう言い聞かせてきたのに、その時は驚くほど簡単に手を伸ばせた。 「……田噛?」 彼女の耳を手のひらで覆った。 指先をくすぐる柔らかな髪に、なぜ今日に限って手袋をしてこなかったのかと自分に舌打ちしたくなる気持ちを抑え、彼女の耳を塞ぐことに集中した。 「これからも、そばに置くだけでいい。…俺はそれで十分だ」 今しがた扉の奥から聞こえた言葉は名前を悲しませるに違いない。 災藤さんが言うように、彼女には肋角さんしかいないのだから。 聞かせなくてよかった、と柄にもなく胸をなで下ろす。 名前は一瞬、俺の手を外そうとした。 しかしその動きを止め、俺の顔をしばらく見つめていた。 死にそう、ってこんな心地なのか。 獄卒になってから初めて知った。 「田噛は優しいんだね」 およそ自分に似つかわしくない言葉を目の前の彼女が言うから、俺は間抜けな顔をしたと思う。 優しい。 ちょっと寒気がするくらい、俺とは無縁の言葉だ。 「意味なくこんなことをする子じゃないものね。何か、私のためを思ってしてくれているんでしょう」 彼女の立場であれば、肋角さんの言葉に耳をすませたいはずだった。 けれど俺の行動を見守って、気持ちまで汲んでくれた。 あまつさえ、優しい目をして笑う。 そうっと手を離すと、名前は言った。 「もういいの?」 頷くと、彼女は執務室の扉をノックして、部屋へ踏み込んだ。 その後ろ姿を追うこともできず、扉は閉まる。 姿が見えなくなったって、手のひらに残ってしまった感触は、より間近で香った煙草の香りは、どうすればいい。 持ち上げた手のひらはわずかに震えている。 「…情けねえ」 ぐしゃり。 彼女の耳を塞ぐ時に落とした報告書を踏めば、少しだけ清々した。 20160126 |