何だこれ。
そう言って田噛が小さな瓶を手に取ったから、私は彼のために持ってきた音楽雑誌をバサバサと音を立てて落としてしまった。
それと同時に、自分の中の何かがガラガラと崩壊する錯覚をおぼえる。
それはおそらく、気まぐれでそっけない彼に合わせてきた、やたら好きも愛してるも言わないドライな自分。
私が立てた物音には横目をやるだけで、田噛の興味は手にしたマニキュアの小瓶に依然として、ある。
その瞳にほどよく似た、鮮やかなオレンジ色のマニキュアだ。

「お前こんな派手なやつすんのか」

なんてこと。
つい彼を思い出して買ってしまったものを、私らしくないからと使わずに日々ひっそりと眺めて楽しんでいたものを、事もあろうに本人に見つけられてしまうなんて、いつもあなたのことを考えていますと告白しているようなものだ。
田噛は私の部屋に関心を持ったことなどないから油断していた。
焦って取り返しても不審がられるだけだと思い、話題を逸らそうとしたとき、田噛が納得したようにまばたきをひとつした。

「ああ。…俺のこと思って買ったわけ」

思い上がった発言に聞こえるが、頭のいい彼は確信を得てからでないとこんなことは言わない。
私の部屋で唯一、彩度が高く鮮やかなオレンジは私の趣味ではないと一瞬で気付いたんだろう。
ほかに何か、私の嗜好や趣味に影響を与えるとすれば田噛くらいのもの。
事実そうかもしれないが、悟られるということはこんなに恥ずかしいことだっただろうか。
彼が顔の横に小瓶を持ってくると、なんだか見せつけられているようで羞恥心が増す。

「…か、返して」
「ん」

力なく言えば、田噛はすぐに小瓶を差し出してきた。
私の手の中に戻ってきたオレンジに安堵する。
田噛にこれを握られていると、持ち物といった範疇を超えて弱みを握られているような気分になるから不思議だ。
そこで私は、田噛がなぜか空っぽの手を差し出したままの状態であることに気付く。

「ベースは」
「え、なに」
「ベースコート、っつうんだろ、確か。持ってるなら貸せ」

田噛がメイク用品の名称を間違えずに言えたことに驚きすぎて、なぜか私は次の瞬間には取ってきたベースコートを彼に手渡しているのだった。
それをくるくると回しては眺め、「どう使うんだ」とぼやいた田噛から私は視線を外せない。

「使うの?」
「買ったからには使えよ」
「はあ……、えっ私が?今からここで?田噛もいるのに?」
「お前以外に誰が使うんだ馬鹿」
「こんな派手なの、肋角さんに怒られるよ」
「…明日非番だろ」

一日だけ塗ってりゃいい。
などと、マニキュアがどういうものか知らずに話を進めているに違いないのだ。この男は。
渋る私に、田噛は椅子にどっかり座り込んでから向かいの席に私を呼んだ。
お互いが正面にいる形で席に着く。
そうして田噛がらしからぬ発言をしたので、私はまたまた驚いた。

「俺が塗ってやる」
「うそ」
「ほんと」
「面倒臭がりの田噛にはおすすめしない作業だよ」
「うるせぇな」

私の言葉を聞き流し、田噛はベースコートの蓋を開けた。
その刺激臭に彼はかすかに眉を寄せたが、言葉には出さずに私の手を取る。
まるで恭しいものに手を触れるかのように。
ただ手を握るときとはちがう感覚がこそばゆい。

「塗り方教えろ」
「ああ、えっとね」

本当にやるのか。
マニキュア液をハケにどの程度のせるか、真ん中から端の順に、という説明を田噛に聞かせるのはおかしな状況だと思った。
彼は言われたとおり、ハケで丁寧にマニキュア液を掬い、私の爪にのせた。
ひやりとした感覚が指先に伝わる。

「…ああくそ、はみ出た」
「後でなんとかなるよ」

さっそく一枚目の爪からこの発言だ。
これを十回繰り返し、それから色をのせ、場合によっては二度塗りし、最後に仕上げのトップコートをするとは言わないでおいた方がいいだろうか。
この男が三十回以上同じ作業を繰り返してくれるとは思えない。
ひとまず片手分、ベースコートを塗り終えた時点ですでに田噛の顔に疲弊が見える。
その手からマニキュアを受け取り、返事も聞かないままあと半分のベースコートをささっと済ませた。
私のかけた時間は、田噛の半分以下である。

「あくまでベースだから、だいたいでいいの。次のほうが大変なんだから」
「女ってこんなこと平然としてんのか」
「そうよ。面倒くさい生き物でしょ?」
「まったくだ」

そう言いながらも、いよいよオレンジ色の詰まった瓶を開封した田噛は満更でもなさそうに見える。
どちらかというと彼のわがままに付き合ってきたのは私のほうだと思うのだけれど、相手のために何かをするのは嫌ではないらしい。
普段はあまり見えてこない可愛げを見つけた気分だ。

「…きれいな色だな」

ハケでオレンジ色を掬い取った田噛がつぶやく。
私の手のひらを下から持ち上げる指先が、相変わらず冷たい。
死人のような手のひらは恭しく私の手を持ち上げたままだ。

「お前に似合いそうだ」

その言葉を皮切りに、田噛は黙々と私の爪をオレンジ色にしていった。
だんだんと慣れてきた手つきは、少し得意げに見える。
その時間は、幸福と表現するのに相応しい時間だったと思う。
キスを求められる時よりも、彼が黙って布団に潜り込んでくる時よりも、私にとっては恋人扱いをされていると感じられる時間だった。
指先からひやりとした感覚が離れ、田噛はオレンジ色の小瓶に蓋をする。

「くさい」
「あはは、慣れないとそうだよね」

鼻を腕に押し当てて、田噛は呻いた。
このまま臭いを充満させていたら彼の気分が悪くなってしまうかも、そう思って窓を開けようと立ち上がる。
私の動きは、慎重に爪に触れないよう手を取った田噛によって遮られた。

「すげぇ疲れた。俺はいますぐにでも寝たい」
「ありがとう。田噛が塗ってくれるなんて思ってなかったから、ここで寝て行ってもいいよ」
「ああ。…でも、そんなことより」

私の指先を眺めて、田噛は話していた。
仕上げのトップコートは後から塗るつもりだが、このままでも鮮やかに艶を放つオレンジ色はきれいだ。
田噛はああ言ってくれたけれど、やっぱり私には少し不似合いだ。
こんなに鮮明な色が私の手にあるなんて。

「これ、落とすなよ。名前」
「でもさっきは、一日だけって」
「俺の労力を一日で無かったことにするんならもう仕事で一切助けない」
「うぐ」

まあ、でも、肋角さんや同僚の目もあるのだ。
肋角さんが許してくれても、どうせ平腹あたりが田噛の色じゃん!と騒ぎ立てるのは目に見えている。
公私混同はしたくない。
仕事中に恋人関連で浮かれているとは思われたくないのだ。
田噛だってそんなのは嫌だろう。
そう思ったのに。

「落とすなよ」

面倒臭がりの彼が、繰り返し言って聞かせた。
とどめには、私の手のひらに頬をすり寄せるおまけつき。
自分のパーソナルカラーに私を染め上げた田噛はきっと、いつになく上機嫌で、私は明後日からは手袋を外さないようにしようと決めた。
不似合いだと思ったはずの色は、これから見つめるたびに少し誇らしく見えるのだろう。

20160111


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