ざわめく人の喧騒は、一人きりの私の孤独を際立たせるようで、私は片足を引き摺って人気のないほうへ歩いていった。
張り切って浴衣を着てきたものの、下駄の鼻緒に限界が来てしまった。
私が足を止めた途端にぷつんと切れてしまって、石段に腰掛けて途方に暮れる。
待ち人ともいまだ会えないまま、いちおう今いる場所をメッセージで送信し、そのまま表示されている時計に目をやる。
そろそろ花火が上がる時間だ。
それまでには行けるだろうから、という彼の言葉を思い返し、私は顔を上げた。
目と目が合う。
見知らぬ男性が立ち止まってこちらを見下ろしており、わずかに胸が騒ぐ。

「歩けないのか」

浴衣姿の彼はそう言った。
帯も浴衣も黒い姿だが、すうと青白い肌をしているせいか、普段から和装をしているのではと思えるくらいにその格好は彼に馴染んで見えた。
彼が身動きするたび、手に持ったラムネ瓶のビー玉がちりちりと細い音を鳴らす。
帯には風車がひとつ差し込まれており、彼はもう片方の手に持っていた団扇も同様に帯へ差した。
答えられずにいると、鼻緒の切れた下駄が地面に置かれているのを見てか、その人はそのまま何も言わずにしゃがみ込む。

「持て」
「は、はい」

私の目の前に傅くような体勢を制止するより早く、彼が飲みかけのラムネ瓶を渡してきた。
思わず受け取ってしまったラムネ瓶はひやりと冷たい感触をしていて、かすかに甘い匂いをただよわせている。
見下ろすと、彼は下駄を裏返し、細い布を使って応急処置をしてくれているようだった。
ふしぎな人。
見ず知らずの私にここまでしてくれるなんて。
他人の履物など、普通ならためらいなく触れるものではないだろうに。
彼の動作を見守る私と、私の下駄を直す彼は、傍からすると恋人同士に見えたりするのだろうか。

「人待ちか」
「わかりますか」
「そんな顔をしてる」
「でも、来るかわからないんです」
「来るだろ。恋人にこんな着飾った格好させた男なら」

視線を上げないままの彼を、じっと見下ろした。
つむじの向こう、後ろ髪のあたりは寝癖がぴんぴんとはねている。
せっかく浴衣が似合っているのにと、その無造作な黒髪を梳いて直してあげたいような気持ちになりながら、私は口を開く。

「よくわかりましたね。待っている相手が男性だなんて、一言も言っていないのに」
「…そんな気がした」

なんだろう。
私はこの人のことをちっとも知らないのに、この人は私に当たり前のように話しかけるから、会話が苦ではなかった。
もしかして、どこかで会ったことがある?
私の足元へ下駄を置いて立ち上がった彼を見つめても、思い当たる節はなかった。
やはり初対面の人だ。

「直ったぞ」
「ありがとうございます」

片足を地に着けないまま立ち上がると、上半身がふらりと不安定に揺れた。
彼が近寄ってきて、私の手を取り、自分の肩へ乗せた。
支えてもらったおかげですんなりと下駄を履くことができる。
わずかに触れた彼の手のひらは、青白いのにやけに熱いのだなと思った。

「お兄さんはお一人ですか?」
「…人を待っていた」

それを聞いて、私は焦った。
こんなところに長い間留まっていて良いのだろうか。
彼こそ恋人のような相手と待ち合わせをしていたとしたら。
行かなくていいんですか。
私の言葉に、彼はゆるりと首を振る。

「もう用は済んだ」

短く返すと、彼は背を向けて私から二、三歩距離を取った。
草履が砂利を踏みしめる音が止まり、気だるそうな後ろ姿が振り返る。
提灯の明かりが映り込んでいるものかと思ったが、離れて見ても彼の瞳は煌々とほの暗く光る橙色だった。
妖しくて優しい色がこちらを見つめている。

「次に会うときは、来年の祭りか、お前が死んだときか」

私たちのあいだを、幾人かの通行人が行き交う。
彼の姿が道行く人に隠れ、再び現れたとき、季節外れな長袖の軍服に身を包んだ姿がそこにあった。
目を見張るも、次の通行人が過ぎ去ったときには、さっきと同じ浴衣姿に戻っている。

「楽しみにしてる」

その一言がやけにはっきり聞こえて、私は何度かまばたきをするうちに彼の姿を完全に見失ってしまった。
狐につままれたような気分でぼうっとしていると、ざ、ざ、と砂利を踏んで走る音が近づいてきて、私の後ろで止まった。
私は振り返り、背の高い待ち人を見上げてから思わず顔をほころばせた。

「きのしたさん」
「ごめん、名前さん…遅くなって」
「だいじょうぶです」

息も絶え絶えに、恋人が謝罪をする。
いつも仕事に忙しい彼は時間を作って私に会いに来てくれる。
それだけで十分しあわせだ。
いつもはきっちりと撫でつけられている髪が走ってきたせいで乱れている。
膝に手をついて息を整える彼の髪を指先で整えていると、背後で花火の打ち上げられる音がした。
歓声と光る夜空に気を取られていると、きのしたさんが私の手を柔らかく握るのがわかった。

「名前さん。それ買ったの?」
「え」

ちりちり、と手の内から細い音がする。
私は中身がほとんど空の、ラムネ瓶を握りしめていた。
おれも飲もうかなあ、なんて笑う彼を見て、先ほどの出来事を口にするのはやめた。
きっと、話してはいけないんだわ。




人間のふりをして生者と恋人になった同僚を、最初は笑った。
何を馬鹿なことを。そんなの意味がないだろう。
しかし周りに何を言われても木舌はしあわせそうだったのだ。
名前さんはね。本当にすてきな女性なんだ。おれにはもったいないくらいだよ。
酔って管を巻くあいつに何度聞かされたことか。
全部、木舌が悪い。
そんなに彼女の話をするから。
今までに見たことがない顔で、同僚が笑うものだから。
まるで俺が、その女性を知っているような気分にさせるくらい、しあわせを語るから。
会ったこともない生者のその女性を、好きになってしまった。
何を馬鹿なことを。そんなの意味がないだろう。
その言葉は丸ごと俺自身に返ってきた。
だから人間のふりをして会いに行った。
恋人を待っているというその女性は、聞いていた話と相違ない人柄で、俺は冷えた体の温度が上昇するのを自覚した。
恋人が来るまでの間だけだ。
一人きりで困ったように途方に暮れていたから。
少しだけ、余計な世話を焼いた。
それで終わりの話。
おそらく、俺はもう二度とあの祭に行かない。
目を閉じて、彼女が三途の川を渡るのを、今か今かと待っている。

20160808

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