ふと懐かしく思い出したものがあって、ここ久しく触れていない部屋の奥のほうまで探し物をした。 ようやく見つけた絵本は私のものというわけではなく、幼い頃の私たちのあいだで共用とされていたが、いつしか私物に紛れ込んだものだった。 少し色あせてはいるが、表紙やページは破れていないし埃もかぶっていなかった。 当時の私がそれを大事に大事に扱っていたことを思うと、笑みが浮かんだ。 絵本を片手に、台所へ向かった。 今はキリカさんもあやこさんもとっくに帰ってしまった夜である。 こんな夜更けに思いつきで料理を始めてしまう私は悪い子かしら。 きちんと整頓された台所の棚から材料を見つけ出し、お菓子だって作ってくれるキリカさんの有り難みを改めて知る。 卵をボウルに割り、牛乳と混ぜ、砂糖や薄力粉などを次々に加えていく。 出来上がった生地をフライパンに垂らしてしばらくしたところで、足音が執務室のほうから近付いてきた。 間もなく台所へ顔を覗かせた彼に、私はつい表情をやわらげる。 「斬島」 「いいにおいがした」 上司ではなく同僚だったことにほっとしたのもあるが、現れるとしたら食いしんぼうの彼なのではないかという自分の予想が当たってしまって可笑しい。 任務帰りらしい彼はそわそわと期待を隠せない様子で私のそばまでやってくる。 すると、私が料理で汚れないようにと少し離れた位置へ置いている絵本に気付いたようで、斬島は目を細めた。 「久しぶりに見たな。どこで見つけたんだ?」 「私の部屋にあったことを思い出したの」 「そうか。名前の部屋にあったのか」 「私たちが本当に小さいころ、木舌がよく読み聞かせてくれたなあって。それでよくよく考えてみたら私、ホットケーキって食べたことなかった」 「俺も食べたことがない」 まだ右も左も分からないころ、獄卒とは呼べないただの鬼の子の私たちを、木舌はよく面倒を見てくれた。 その日々に、この絵本は常にともにあった。 お昼寝の前に、喧嘩の仲直りに、悲しい時に楽しい時に、読み聞かせてもらったのだ。 絵本や物語のなかの食べ物って、どうしてこうも美味しそうに思えたのだろう。 今思い出してみても、この絵本のなかに出てくるホットケーキというものは私たちの誰もが食べたことがなく、なおのこと夢のような食べ物に思えたものだった。 目の前の、甘い香りをさせる生地をひっくり返すと綺麗なきつね色をしている。 「斬島、一緒に食べる?」 「そう言ってくれるのを待っていた」 素直極まりない斬島の言葉に笑う。 斬島にも何枚か焼くのを手伝ってもらい、気付けば二人の前には山のように積まれたホットケーキ。 もともとは一人で食べるつもりだったのに、どうしてこんなに多く出来上がってしまったのだろう。 夜更けの空気と、二人きりの台所と、絵本を傍らに置く料理の時間というものが、私たちの口を饒舌にさせた。 ホットケーキを焼くあいだ、私と斬島は昔のことばかり話した。 獄卒という身である以上、過去の記憶などいくらでも湧き出てきた。 獄卒になったのはいつだったか、初めての任務はどうだった、そのあとの単独任務は緊張した、などと取り留めもなくいくらでも喋りあった。 斬島は普段の様子と比べても、今までにないくらいおしゃべりだったように思う。 「たくさん焼けたね」 「大丈夫だ。食べきれる」 「うん、心強いよ」 「いただきます」 「いただきます」 いつでもきりりと真面目な彼といるのが楽しくて、私も大真面目に返事をしてしまう。 静かな食堂に、しんと響く食事のあいさつとフォークのかちゃかちゃという音。 一口目を口に運んだ斬島が、無表情のままであるが喜びに満ちるのがわかる。 不思議だったのは、そのまま二口目へと続かずに、彼がフォークを止めたことだった。 「名前。どうしてだろうか」 「何が?」 「俺はホットケーキというものを初めて食べたはずなのに、これを懐かしい味だと思う」 彼が視線を注ぐ先には、皿の上の少し欠けたホットケーキ。 そこで私もようやく、未知であるはずの食べ物をためらいなく口に運んでいたことに気付く。 初めて作ったわりには美味しくできたな、くらいにしか思わなかったけれど。 口にした時の安心感のような心地は、なかなか味わえるものではない。 そうか。これを懐かしいと呼ぶのか。 斬島はいつでも誰もが見落としがちなことを教えてくれる。 何でもよく見て、よく聞き、よく考える彼の生き様を好ましく思う。 「そうだね。懐かしい。それと、おいしいね」 「ああ。おいしい」 会話はそれきりで、私と斬島はたちまち空腹を思い出して、山のようなホットケーキをもくもくと食べた。 皿が空になるころ、私は台所の小さな椅子に置きっ放しにしていた絵本を取ってきた。 膝に置いて表紙をなでる私のことを、斬島が見ている。 ホットケーキは私たちが幼いころに思い描いたとおりの、やさしく甘い味がした。 「今度はみんなが起きている時に焼こうか」 「そうだな」 「たくさん食べるんだろうなあ。材料足りるかな」 「買い出しには俺も付き合おう」 「ありがとう。ねえ斬島」 「?」 「二人だけで先にホットケーキを食べたことは秘密だよ」 「ああ」 なんとなく。 昔話を赤裸々にしてしまったことが思い出され、私と斬島だけの秘密にしておきたくなった。 ここにいるのが斬島でよかったと思う。 私はこの夜を忘れないし、後悔もしないのだろう。 20160515 |