コンコン。 どうぞ、と答えれば病室の扉が開き、私の上司が部屋へと足を踏み入れた。 この病院は先生の身長が高いから、扉や廊下などすべてが大きく作られているように思う。 私たち獄卒のなかではひときわ大きい彼でさえ、ここならば窮屈な思いをしないだろう。 「ご足労いただき、ありがとうございます」 「よせ。堅苦しい」 私が身を起こそうとするのを、肋角さんは手で制した。 背もたれから離しかけた体を、元に戻す。 ベッド脇の棚にはきれいな花が花瓶へ生けてある。 昨日災藤さんが持ってきた花束を、看護婦の方が移してくれたのだ。 それに目をやり、肋角さんは言う。 「何も手土産がなくて悪いな。閻魔庁からの帰りなんだ」 「いえ。お忙しいなか足を運んでいただけて私は十分、」 「名前」 くどいぞ。他人行儀が過ぎる。 わずかに呆れたような視線が物語っていて、私は薄く笑みを作るほかなかった。 この人に久しぶりに会えた嬉しさと、入院してから数日続く憂鬱が綯い交ぜになっている。 「具合はどうだ」 「ええ、ずいぶんとよくなりました。先生は近いうちに歩いてみなさいと」 「…今回は傷の治りが遅いな」 「きっと私の気持ちが、大きいのでしょう」 気持ちなどと、人間じみたことを言って否定されはしないか。 一抹の不安はあったが、肋角さんは何も言わず私のことを見つめていた。 やはり、話すしかあるまい。 私の視線が俯きがちになるのは、今だけは許してほしい。 「肋角さん。私、思い出したことがあります。私に傷を負わせた獣のような怪異、あれを見たとき、体が凍りついたように動きませんでした。恐怖という感情に覚えがありました。…私が獄卒になる前の、生前のことをすべて、思い出しました」 肋角さんは無言のままだ。 本人から聞いたわけではないが、斬島も生前の記憶があるという。 斬島は、肋角さんに自分の過去について話したことはあるんだろうか。 「つまらないものでした。私は人柱でも忌み子でもありませんでした。ごく平凡な家に生まれ、育ち、まだ幼いころに山へ遊びに出て、迷って帰れなくなり、最後は山犬に食われました」 死に方に特別などというものはないけれど、私はあまりにあっさりと死んでしまった。 あのときは本当に、本当に痛かった。 生きながらにして食われるなど、まるで地獄のようだった。 あのような痛みは、獄卒の身になってからも経験したことがない。 当時のことを思い出し、私は身震いした。 そして山犬にも似た怪異を前に、動けなくなった。 行動を共にしていた木舌が呼ぶ声にも反応できず、怪異に丸呑みにされた。 その先のことは曖昧で、よく分からない。 「両親は私の死をそれなりに悲しんでくれたようですが、次第に忘れられていきました。両親の期待は、私より優れ、私より人付き合いがよく、私より人望のある弟へと移っていきました。私が死んだ後のことを、魂だけになってからも見ていました。それを今まで忘れていたようです」 本当に忘れていたのだろうか。 こんな記憶はいらないと、自ら忘れたのではないか。 そうだとしたら、私は弱く、情けない奴だ。 「肋角さん。私たち獄卒は、亡者を追うのが仕事です。そのために怪異や魑魅魍魎の類と相見えることもありましょう。しかし私は今回のような姿をした相手に戦うことが、…できないかもしれません」 この人の前で、「できない」などと口にしたくはなかった。 肋角さんに認められたくて、少しでも成長したと思われたくて努力してきた私にとって、耐え難い悔しさだった。 けれど現に何もできなかったのだ。 過去の恐怖に囚われ、役に立てず、足を引っ張った。 私のことを助けてくれた木舌にも怪我を負わせた。 私は、やはり、 「獄卒を辞めるべきでしょうか」 肯定されてしまったらどうしよう。 声を震わせる私の頭の上に、大きな手のひらが乗るのがわかった。 自分から辞めますと言い切ることができない私は、そんなことはないと彼に否定してほしいに違いない。 「辞めたいのか」 ぐ、と息が苦しくなる感覚。 肋角さんの一言はとても重い。 今までに彼の意見に逆らったことなどない。 それでも反射的に声を上げるくらいに、私の意思は決まっているのだ。 「い、嫌です」 「獄卒を辞めて、よそのものになるか?もしくは、ただの鬼としてこの先を過ごすのも一つの道だ」 首を振る。 何度も何度も、駄々をこねる子供のように首を振る。 うまく言葉が出てこなくても、黙って聞き入れてはいけないと心が叫んでいる。 私は獄卒でいたい。 よその機関へ属することなど考えられない。 ただの鬼ならば、それは私とは呼べない何かになるだろう。 「どうかそばに、置いてください。私は肋角さんのそばにいたいです」 私の本音は詰まるところ、非常に単純だった。 上司であり憧れであり、ほかの誰でもない彼のそばで働きたい。 はっきりと言葉にして認めた瞬間、胸のうちが軽くなるのを感じる。 後頭部へ回された手のひらに引き寄せられて、私の体は肋角さんへ寄り添う形になった。 気恥ずかしいが、過去も何もかも思い出した今ではひどく安心した気持ちになって、額をこすりつける。 「正直でいろ。お前の望みを聞いてやれるくらいの立場にはいるつもりだからな」 肋角さんの声が振動とともに伝わってくる。 間近で聞くと泣いてしまいそう。 あやすようで諭すようで、私の頭上から降ってくる。 「自分が死んで、お前の両親は本当にそれほど悲しまなかったと思うか?子に先立たれた親ほど不幸なものはいない。親の気持ちは大切にするものだ」 「…肋角さんが言うと説得力があります」 私たちのことを見守っていてくれる彼だからこそ響く言葉だ。 そう思ったのだけれど、ふいに肩を掴んで身を離され、肋角さんと向かい合う形にされた。 彼は少し不機嫌そうだ。 「名前、俺を何だと思っている?俺はお前の親じゃない。恋人だ。分かっているのか?」 「はい、分かっています」 言葉にされずとも分かっている、分かっているのに、言葉にされると嬉しいのだ。 そうだ、私はどうしようもなくこの人のものなのだ。余計なことを考える必要はない。 ふたたび、彼の手のひらは私の頭を撫でる。 愛しいのだと手のひらが囁いてくる。 「怖かったか」 「…はい」 「今も辛いか」 「いいえ」 「そうか。いい子だ」 ああ、幼いころの私に教えてあげたい。 こんなに優しくかけがえのない人と会えたのだから、死ぬのも悪くないものだ、と。 20160412 |