「隣、いい?」 対戦校のデータをまとめた分析ノートに目を落としていた私は、声を掛けられて視線を上げた。 見上げた先の日向の太陽のような笑みに、私もつられて笑顔でうなずく。 隣の座席に腰を下ろした彼は、私のノートを見て言葉をこぼす。 「それ、マネージャーの仕事?」 「ううん。コーチに提出したのとは別に、個人的にまとめておいた他校の分析。出発前に頭に入れておきたくて」 「みょうじは真面目だなー。あ、でもバスが動き出したら酔うからやめとこうな!」 「はいはい」 日向に言われたとおり、ノートは閉じて膝に置いておく。 大会にしても遠征にしても、試合のためにどこかへ向かうというのは心が浮き足立つものだ。 今日は練習試合のため、バス内にはほど良い緊張感と高揚感が流れていた。 そういえば、どうして日向は私の隣に来たんだろう。 「日向。もしかして影山くんとケンカした?」 「えっ」 「いつもは言い合いしながらも隣に座ってるじゃない」 「ケンカ…っていうか、あいつがまたヤな感じの言い方したんだよ!お前はどうせ緊張するから、何も考えるな!だってよ。おれを何だと思ってんだ」 心外だと言いたげに日向が腕組みをして話す。 怒っているのは確かだろうけれど、一時期険悪だった二人の雰囲気に比べれば微笑ましく感じる怒り方だ。 日向は同意をしてほしくて話しているのに私が笑って聞いているから、彼は不思議そうな顔をした。 「なんで笑うんだよ」 「仲良しだなぁ、と思って」 「仲良くねーし!」 ぷんすか怒っていた日向だけれど、何か思い出したように鞄を漁っている時にはもう元の表情に戻っていた。 くるくると変化する日向の表情を見ていると元気が出るなぁ、と思う。 座席の隙間からちらりと覗けば、後ろの方に座る影山くんは日向との言い合いの余韻もなく、菅原さんと熱心に話し込んでいる。 セッター同士の作戦会議だろうか。 肩を叩かれて視線を戻すと、日向がお菓子の箱を差し出していた。 「これ、さっき田中さんにもらったんだった!みょうじも食べる?」 「うん。ありがとう」 どうせ緊張するから。 影山くんは日向にそう言ったらしい。 けれども、私の隣で意気揚々とお菓子を開封する姿には緊張どころか、この後の試合を楽しみにしている雰囲気すら感じられる。 そうなのだ。 緊張が先立つだけで、日向はいつだって強敵相手に試合をすることに喜びを感じている。 そのことは、マネージャーとして見てきたからよく知っている。 選手が伸び伸びと試合に臨めるよう努めるのも私の仕事だ。 もっと頑張らなくちゃ、と思うと同時に、日向の進歩を感じる。 烏野に入って初めての試合に向かう時と比べたら、彼はずいぶん落ち着いたと思う。 にこにこしている日向を見ていたら、思わず本音を漏らしてしまった。 「成長したなぁ、日向」 「えっ、何が?」 「今、青城との練習試合に行った時のこと思い出してたの。あの時はお菓子食べる余裕なんてなかったじゃない?」 「そ、それは…」 自分でも色々と思い出したのか、日向が痛いところを突かれた苦い顔をする。 私としてはからかいたい気持ちと、成長を認めてあげたい気持ちが半々で、実に楽しそうな表情をしていたことだろう。 頬杖をついて見やると、日向はぐぬぬと悔しそうに口を歪めた。 「あの時は主将も菅原さんもハラハラしてたんだよ」 「…おれが未熟だから?」 「単に可愛い後輩を心配してただけだって」 「そ、そうかな」 「うん。私も焦ったなー、日向がバスで吐いちゃった時は」 「うう、それ言わないでほしいんだけど!」 日向の目が泳いでいる。 彼にとっては苦い思い出かもしれないが、あの頃と今の両方を知っている私からすれば感慨深いものがある。 少しいたずら心が湧いてきて、私はノートを手に取ってひらりと振ってみせた。 「あの時の試合もちゃんと記録してあるんだから」 「わああ!だめ!やめろって!」 これ以上言わせまいとしたらしく、日向の手のひらが私の口元を覆った。 実はこのノートにはあの試合の記録は書いていない。 うちのチームのことはきちんと、他校のデータとは別のノートにまとめてあるのだ。 私は日向が本当に嫌がることはしないつもりなのに、信用がない。 よく影山くんや田中さんに便乗してちょっかいを出しているからだろうか。 慌てている姿がおかしくなって笑うと、はずみで私の唇が日向の手のひらに軽く当たった。 途端に、びくっと肩を揺らした日向が素早く手を引っ込める。 「ご、ごめん!」 「ううん。気にしてないよ。私こそからかってごめんね」 「あ、そう…気にしてないか…そっかぁ」 唇にわずかに残るのは、日向の高めの体温。 私たちの身長差はほとんど変わらなくても、そういうところはきちんと男の子だ。 肩を落とした日向は自分の手のひらをじっと見つめていた。 ちょうどその時、武田先生が乗り込んできてバスの扉が閉まった。 「それでは、出発します!忘れ物はないですね?」 武田先生の一言に、部員全員が姿勢を正して元気のいい返事をした。 それは日向も同じで、出発してからしばらくは他愛ない会話をしたり、日向からもらったお菓子をつまんだりして過ごした。 ふと眺めていた窓から視線を戻すと、日向の頭がゆらゆらと揺れていた。 眠そうな彼の手からそっとお菓子の箱を抜き取ると同時に、傾いた日向の頭が私の肩に寄りかかった。 鮮やかなオレンジ色の髪がふわふわしている。 なんとなく、窓の外の景色より日向の表情を見ていたい気分だった。 穏やかな寝顔を見ていたらあったかい気持ちになって、つられて私もうとうとしていたらしい。 控えめに肩を叩かれて、目を覚ましたらバスはすでに対戦高校の敷地内に着いていた。 ぱっと顔を上げた先では、山口くんが申し訳なさそうにして通路に立っていた。 「ごめん、先に日向に声掛けたんだけど全然起きなくてさ…みょうじさん、起こしてやってくれない?」 隣を見ると、相変わらず日向は私に寄りかかる形でぐっすりと眠っていた。 起こしてくれたお礼を言うと、山口くんはちょっとはにかんで先にバスを降りていった。 山口くんの気遣いに感謝しつつ、まだ私に体重を預ける彼へと意識を向ける。 「日向、起きて。着いたよ!」 「んん…」 まだ時間はあるけれど、出来れば早く起きて試合の準備をしてほしい。 日向の肩を軽く揺さぶっていたら、上から容赦なく日向の頭を叩いた手のひらがひとつ。 影山くんだ。 むすりとした表情は不機嫌にも見えるけれど、おそらくこれが彼の地顔である。 「おらさっさと起きろボゲ。マネに迷惑かけんな」 「いって…何すんだよ!」 ようやく目を開けた日向は眠そうにまぶたをこすり、次に頭の痛みに意識が向いたらしい。 こちらを見下ろす影山くんに気付いた途端、むっとした顔をしていた。 先ほどの言い合いを引きずっているようだ。 しかし影山くんは気にした様子もなく、意外そうにきょとんとして言った。 「なんだ。みょうじの隣だったら熟睡するくらいリラックスできてるじゃねえか」 影山くんは何でもなさそうに言ったけれど、正直私は嬉しかった。 ちょうど日向には緊張せず過ごしてほしいと思っていたところだった。 マネージャーとして、試合前に日向が伸び伸びと過ごしていられたのなら何よりだ。 そう思って隣を見たのだけれど、何故か日向は熱があるみたいに顔が真っ赤だった。 訳が分からない私と影山くんが顔を見合わせていると、日向が唐突に大声を上げたから驚いた。 「そんなことねーよ!」 「そんなことあるだろうが」 「違う!おれはむしろ、みょうじといると緊張するんだからな!」 ぐるっとこちらを振り向いた日向があまりにも必死で、反論する暇もなかった。 「おれ先に降りる!」と言い捨てて駆け足でバスから降りていってしまった後ろ姿を、呆然として見送った。 今のは何?という思いがシンクロしたようで、影山くんと首を傾げていると、一番後ろの列に座っていた月島くんがやってきて言った。 「日向とみょうじさんってさ、アレだよね」 「アレ?」 私と影山くんが声を揃えて返すと、月島くんは浅くため息を吐いた。 彼のこういう反応はいつものことだからと気にしない私とは違って、影山くんは露骨に腹を立てたようである。 「アレって何だ」 「え、わかんないの?うわ〜王様鈍感〜」 そこからは普段と同じやりとりで、月島くんに挑発されて憤慨した影山くんは足音も賑やかにバスを降りていった。 その傍らで、私は日向に言われたことを反芻していた。 気を楽にして過ごしてほしいのに、日向は私のそばだと緊張するらしい。 それは、少し問題だ。 悩む私に、月島くんが「ねえ」と声を掛けた。 「王様は一生悩んでいればいいけれど、みょうじさんには教えてあげようか」 「うん。教えて!」 月島くんが身をかがめるので、私も一歩身を寄せた。 そして、ひそりと囁き落とされた言葉は私を混乱させるには十分だった。 「僕が言いたかったのは、君たちもどかしいよねってこと。日向の言葉、よく考えてみたら?」 「どうして緊張するのか、ってこと?」 「あいつはみょうじさんが特別だから緊張するんでしょ」 最後に意地悪な笑顔を見せて、月島くんは足取り軽く去っていった。 バスに一人残された私は、様子を見にきた武田先生が来るまで、やけに熱い頬を隠せずにいたので、日向の心配をしている場合じゃないなと思った。 20140819 |