行ってみたい。 そう囁いた蛍の唇を、私はしばらく見つめてしまった。 もうすぐ夏休み、とクラスメイトが浮き足立つ教室のなか、時が止まったように思えた。 私だって、さっきまでは蛍に夏休みの予定を熱心に話していたところだった。 私の祖父母は海の家を経営していて、今までも里帰りのたびに店の手伝いをさせられていた。 今年からは高校生ということもあって、正式にアルバイトをすることになっていて、こき使われるとは分かっていてもようやくただ働きではなくなることを喜んでいた。 そのような経緯を話していたら、興味がなさそうに黙りこくっていたはずの蛍が急に口を開いたのだ。 「いま、何て言ったの?」 確認のために、私はおずおずと尋ねた。 蛍は相変わらず意欲的ではない目をしていたが、頬杖をついたまま発せられる声音だけははっきりとしていた。 「その海の家に行ってみたい。交通費は自腹で出すし、構わないでしょ」 はい決定、と言いたげに蛍は話を打ち切った。 さっさと身支度を整えて部活に行ってしまった彼氏を見送り、つぶやく。 蛍と海。 なんて似合わない組み合わせだろう。 ▽△ 一つ、また一つと瓶ラムネが売れていく。 日本人はこの夏の風物詩に弱い。 お客さんにラムネを渡すたびに氷水に手を浸すけれど、それくらいではどうにもならないほどに暑かった。 分かっていたことだが、目の前の海で涼み、遊び、はしゃぐ人々を目にしながらの仕事は精神的にも肉体的にもキツい。 長いため息を吐くと、売り場から少し離れたところに体育座りをしていた蛍が私を見上げた。 私は最初、蛍がバイトをしたくて海の家に来たのかと思っていたのだが、彼は海で泳ぐでもなくこの場所に留まっている。 「水分摂って休憩すれば」 「うん、そうする」 地元の大学生のバイト仲間に声掛けをしてバトンタッチしてもらった。 交替の間際、彼女が蛍に熱い視線を送ったのはあまりにも露骨だったけれど、蛍は涼しい顔で海を眺めるだけだった。 ひたすらモテる彼氏を少々恨めしく思いながらも、蛍の隣に落ち着いた途端に気が緩んでどっと疲れを自覚してしまうあたり、私は蛍のことが好きでしょうがないし、安心できる存在だと思っている。 「ぶさいくだね」 「…誰が」 「なまえが」 「蛍が今までになく辛辣だから拗ねた」 営業スマイルを作りすぎていま自分がどんな表情をしているのか分からないし、疲れが表情に出てしまっていることは分かっている。 けれど、そんな言い方をしなくたっていいじゃないか。 蛍曰わくのぶさいくな顔を隠すようにして、私も体育座りをする。 すると、肘を軽くつつかれる感覚があった。 「なまえ、何か飲みなよ」 「ほっといて」 わざと可愛くない声で返すと、隣の蛍がすっと立ち上がったのが分かった。 一度座り込んでから立つ気力もなくなった私の前を横切ると、蛍は店番をしている女性に何やら話し掛けていた。 つまらない彼女より女子大生がいいですかそうですか、と不機嫌になっていたら首筋に冷たい物を当てられて変な声が出てしまった。 呆れ顔の蛍が差し出していたのは、私がさっきまで売っていた瓶ラムネだった。 「スポドリが売り切れだったから。何も無いよりマシでしょ」 「…うん、ありがとう」 これを買いに行ってくれたのか。 素直に受け取る私に、蛍はほんのちょっと目を細めてから元の位置に腰を下ろした。 同じ瓶ラムネを開封し、一口飲んだ彼は顔をしかめて舌を出していた。 炭酸で舌が痛いらしい。 「なまえ、結構バテてるね」 「接客業を舐めてたよ。今までは裏で荷物運びくらいしかしなかったから」 「子供だったから楽な仕事与えられてたんじゃない?」 「そうかもしれないね」 祖父母に蛍を紹介をした時、それはもう大騒ぎだった。 孫が彼氏を連れてきた!と騒がれるのは、たとえ事実だとしても気恥ずかしいものがある。 オシャレな子だねえ都会の子みたいだねえと楽しそうな祖母に、「いえ、宮城育ちですケド」と真面目に返していた蛍が面白かった。 自宅でのんびりすればいいという祖父母の提案を断り、蛍は私のアルバイトについて来た。 海パン姿にパーカーを羽織っただけの蛍は人目を引き、あらゆる女性から逆ナンされたもののつれなく返し、暇そうに海を眺め続けている。 正直、せっかくの海というシチュエーションを楽しんでいるのか疑問である。 「蛍は、なんで海の家に来たの?」 純粋な疑問から尋ねると、「別に。なんとなく遠出したかっただけ」と、素っ気ない返事が返ってくる。 せっかく来たのだから、蛍には楽しんでもらいたいのだけれど。 私が仕事をしている間ずっと手持ち無沙汰になっているのも申し訳ない。 「蛍、海で泳がないの?」 「泳がないよ」 「日焼け止め貸してあげるからさ」 「そういう問題じゃなくて」 「砂遊びは?」 「子供じゃないんだから」 「もう、じゃあ本当に何しに来たの?」 私が繰り返し尋ねると、蛍がじろっと睨んできた。 あれ、怒ってる。 びっくりして少し顔を引っ込めると、蛍はため息を吐いた。 「そんなに理由が必要なワケ」 「いや、だって蛍が暇そうだから」 「いいんだよ」 蛍は取り出したタオルで私の顔をぐいぐいと拭いた。 長時間の店番で、結構汗をかいていたらしい。 ちょっと恥ずかしくなった。 「誰かが熱中症にならないように見張ってるだけで、僕は十分忙しい」 「…そうなの」 「そうだよ。それに、ずっと泳がないなんて言ってない。何のために水着持ってきたと思ってるの」 それは、確かに。 何とはなしに視線を下ろして、パーカーから覗く蛍の肌は白くて、すぐに目を逸らす。 今更ながら、大好きな蛍と海にいるという実感が湧いてきたのだ。 「バイト頑張ってよ。いつまでも待ってるから。そうしたら、泳ごう」 「…うん!」 急にやる気が出てきて、私はすっくと立ち上がった。 交代しまーす、と元気良く声掛けをした私を、蛍が割と優しい眼差しで見ていたことは知る由もなかった。 20140819 |