俺には好きな女の子がいる。 その子は日向と同じ一組で、俺が教科書の貸し借りやら何やらで教室に行くと、いつも日向と話している明るい女の子だ。 俺は彼女と直接話したことはないけれど、日向が俺に気付いて「あっ山口ー!」と手を振ると、つられるように振り向いて目が合えばにっこりと笑ってくれる。 日向が呼ぶのを聞いて、その子が名字さんという名前であることを知った。 一目惚れ、とは少し違うと思う。 最初は日向といつも話している女の子がいるなぁってくらいの認識で、笑顔とか表情の移り変わりとか、少しずつ知っていくうちにだんだん気になってきて。 けれど、俺の一方的な片思いには違いない。 名字さんは太陽みたいに華やかな子で、俺みたいな奴のことを知っているかどうかも分からない。 始めは彼女のことを眺めているだけでいいやと思っていた恋。 今では彼女と話してみたい、俺のことを知ってほしいという、それなりの欲が出てきてしまっている。 最近、俺の頭のなかは名字さんでいっぱいだ。 いつでもどこでも、彼女のことばかり考えてしまう俺の頭はおめでたい。 そういえば、ツッキーに名字さんのことは話していない。 だって女の子にモテモテなツッキーに俺のつまらない片思いの話をしたってしょうがないと思う。 だから、どうしても口数が減る日々が続いている。 しょうがないと思う気持ちとは裏腹に、うっかりすると名字さんのことを話してしまいたくなるのだ。 そんな俺のことを、ツッキーはよく怪訝そうに見ていた。 名字さんも他の女の子と同じように、ツッキーや影山みたいな奴をかっこいいと思うのだろうか。 そう思うと、憂鬱が心を支配する。 机に頭をくっつけてうんうんと唸りたくなってしまう。 「山口」 「…」 「次の授業のプリントなんだけど」 「……」 「ねえちょっと聞いてんの?」 「………はっ、な、何ツッキー!?」 「山口のくせに僕のこと無視するんだ。へえ〜え」 「ご、ごめん!ホントごめん!」 一人の世界に長いこと浸っていたせいで、現実世界に戻ってくるのが遅れた。 面白くなさそうに教科書の角で俺の肩をぐりぐりとやるツッキーに平謝りした。 「みっともないから土下座はやめてよね」と言われたので、椅子から下りて謝るのは免れた。 ツッキーの分かりにくいお許しにほっと息を吐いたのも束の間、机に頬杖をついたツッキーがさらりととんでもないことを言った。 「好きな子でも出来たの?その様子だと片思い?」 「…!!……っ!?」 「なんでわかったのって顔してるけどさ、お前わかりやすいんだよ」 「…俺、わかりやすい?」 「ここ数日の寡黙っぷりと挙動不審を見逃してやった僕に感謝してよね」 日向にあれこれと名字さんのことを尋ねた時はそのような指摘をまったくされなかったから、自分ではすっかり隠せていると思っていた。 一定以上の質問を重ねると日向は、「気になるなら本人に訊けばいーじゃん!」と俺を引っ張って行こうとするので「いいって!日向!やめて!」と制止するのが常だった。 それを聞くなりツッキーは顔をしかめて、「赤点補習の奴と一緒にしないでくんない」と吐き捨てた。 「最近やたらと日向のクラスに行くよね。その子、一組なの?」 「えっ…あ、うん」 「なんで挙動不審になるの」 「ツッキーが話聞いてくれるなんて思ってなかったから…」 「好奇心だよ」 ツッキーが立ち上がる。 トイレ?と思って眺めていたら何故か首根っこを掴まれて俺も立たされた。 そのまま引きずられていく方向に、俺は悲鳴に近い声を出した。 「ツッキー、どこ行くの!?」 「一組に決まってるじゃん」 「いや、だって、今日は日向に用事ないしっ」 「お前が用事あるのは日向じゃなくて好きな子なんじゃないの」 ツッキーの言うことももっともだ。 でも心の準備が!などと喚いているうちに一組の前に着いてしまった。 なんだかんだ自分は正直者で、用事がなくても彼女の姿を見たいという気持ちがあるからか、足はすんなりと目的地に進んでいたらしい。 そろりとドアから覗くと、いつも通り名字さんは日向と話していて笑っている。 ああ、やっぱり好きだ。 彼女の笑顔を見た瞬間、胸がきゅーっとなって顔が熱くなってくる。 俺の上から顔を覗かせたツッキーが目を凝らす。 「どの子?」 「いま日向と話してる子。今日もかわいい…」 「そう?…ふーん、やっぱり山口と僕の趣味って違うね」 「で、でも!名字さんはよく笑って気が利くいい子なんだよ。日向に勉強教えたりさ、優しいんだ」 そこまで興味がなさそうに言うツッキーに、自然と反論をしていた自分に驚いた。 ツッキーも意外そうに俺を見返すけれど、怒った風じゃなくて感心したみたいに見えた。 俺が話した内容は日向から聞いたことがほとんどだけれど、名字さんを好きな気持ちはちゃんと俺自身の気持ちだ。 だから、これは素直な気持ちが言葉に出たんだと思う。 「それ本人に言えないの?かわいいとか、いい子だとか」 「ほ、ほ、本人!?滅相もない!」 「ちょっと落ち着きなよ山口」 見直して損した、みたいな顔をするツッキーに必死で首を振る。 そこで「あっ、山口!」とよく通る声が教室から廊下へ響いた。 こちらに手を振る日向が、すぐに「ゲッ」という顔をしたのは普段はいないツッキーがいたからだろう。 窓辺の日差しを受けていた横顔が、振り向く。 名字さんと目が合った。 体温が急上昇していく。 「ひ、日向が来る前に行こうよツッキー!」 「なんで。あの子と話してくればいいじゃん」 「むっ、無理無理無理無理!!」 「…ヘタレ」 「教室に戻ろう?ほら戻ろうよツッキー!」 ぐいぐいと肩を押すと、ツッキーは舌打ちをしながらも言うことを聞いてくれた。 自分の教室に戻る道すがら、俺はまた少し憂鬱になった。 名字さんはツッキーを見てどう思っただろうか。 やっぱり好きになっちゃうのかな。 ああ、こんなことを考える自分が一番嫌だ。 俺の心模様に伴って、午後からは雨が降った。 急な雨ということもあって購買部のビニール傘はバカ売れで、大半の生徒がそうであるように俺はその争奪戦に負けてしまった。 敗者は雨に濡れて帰るしかない。 図書館で時間を潰していくというツッキーと別れ、早く帰ってサーブの特訓をしたい俺は通い慣れた道を雨の中走った。 途中で雨宿りにと駆け込んだ軒下で、俺は心臓が止まるかと思った。 あの明るい太陽のような女の子が、いたのだ。 息を切らした俺と、雨の降り具合を眺めていた彼女の目が合う。 名字さんはいつもと変わらずにっこり笑った。 「日向の友達の、山口くんだよね?」 「! お、俺のこと知ってるの?」 「うん。よく教科書の貸し借りしてるでしょ?山口くんが帰ったあと、日向はいつも部活の話をするから、知ってる」 日向ありがとう、超ありがとう。 内心でチームメイトに一生分のお礼を言いながら、ようやく隣の名字さんを見つめる余裕が出てくる。 背、ちっちゃいな。 髪が濡れているところを見ると、彼女も傘は持ってないんだろう。 俺の心は急速に晴れていったけれど、現実の雨は止む気配がない。 「雨、すごいね」 「…うん」 「小雨のうちに帰りたかったんだけど、本降りになっちゃって」 「そっか」 名字さんと話している。 なんだか夢のようだと思った。 たとえぎこちない相槌しかできなくても、二人きりという時間を共有できている事実に感動してしまった。 ずっと眺めていただけの今までと比べたらすごい進歩だ。 もう俺は今日死んでしまっても悔いはない。 ちらりと見やると、名字さんは大きな瞳でこちらを見上げていたのでドキッとする。 「山口くん、部活で変わったサーブを練習してるんだって?」 「あ…、うん。本番で成功したことはないんだけどね」 思わず目を逸らして、語尾は曖昧な笑みに濁した。 まだ成果も出せていないことを人に知られるのは、なんだか恥ずかしい。 そう感じた俺を見つめる瞳を、名字さんは逸らさなかった。 「日向が、すごく頑張ってるって誇らしげに言ってたよ」 「ほ、ホント?」 「うん。もちろん本番で成功したら一番いいんだろうけれど…本番のために、成功させるためにきちんと努力をしている人は、かっこいいよ」 だから自信持ってね、と真剣な眼差しをふいに柔らかい表情に緩めて、名字さんが言う。 ああ、もう。 そんな風に言われたら嬉しくなってしまうじゃないか。 ますます、好きになってしまうじゃないか。 俺は、どうして恥ずかしいなんて思ってしまったのだろう。 他でもない名字さんが隣にいて、話を聞いてくれているというのに。 反省する俺を気遣うように様子を窺っていた名字さんが、何かに気付いたらしく俺の学ランの袖を引いた。 「なっ、なに?」 「山口くん、肩濡れてるよ。もっと寄らないと」 言われたとおり、俺の右肩は軒下からはみ出して濡れていた。 図体ばっかりでかいんだもんなあ、と適当に手のひらで水滴を払っていたら、そこにハンカチが宛がわれた。 自分以外に、そんなことをしてくれるのはこの場に彼女しかいないわけで。 労るような手つきで触れていた俺の肩から離れる名字さんの手を、思わず握りしめていた。 「名字さん」 「…はい」 名前を知られていたことを意外そうに、けれど彼女ははっきりと返事をした。 知っているに決まってるじゃないか。 ずっと見てきたんだ。 ずっと好きだったんだ。 さっきのお気楽な考えは撤回する。 もしも今日で死んでしまったら、俺は絶対に悔いが残るだろう。 このままなんて嫌だ。 ちゃんと伝えられる時に、伝えないといけない。 お世辞でも俺をかっこいいと言ってくれた、大好きな女の子に。 はねた雨粒が彼女の前髪についているのを、指先でそっと拭った。 「おれ、俺、名字さんのことが…好きです」 雨音がやけにうるさく感じた。 届いただろうか。聞こえただろうか。 おそるおそる、閉じていた目を開ける。 呼吸を、忘れた。 名字さんはやっぱり太陽のように微笑んでいて、けれどいつもと違って頬がうっすら赤くなっていて、俺が見てきたなかで一番きれいな表情をしていた。 彼女が口を開く。 俺は、彼女の言葉が雨音に紛れてしまわないよう、そっと耳を澄ます。 20140219 きみの声を俺だけに聞かせて |